インドネシア訪問記
(2014年5月12日-17日)

5月12日(月)

ギギン氏との夕食(レストラン「ミランダ」20:30-)

ギギン・プラギナート氏(Gigin Praginanto)は、通訳兼エスコート役のK氏の知人で、IFAD(Indonesia Forcus Advisory)のDirectorである。そのギギン氏と、同氏が行きつけの老舗レストランにて会食しながら、軽い会話を行なった。

 仙谷から、インドネシアと日本をつなぐビジネス感覚を持ち合わせた人材のネットワークが大事であること、またインドネシアにおいては中間層の増大が同時に技術的中間人材の育成と結びつくことが重要であることを話した。

 ギギン氏は、これに応えて、すかさず、自身がすでに日本の中間層よりもおそらく豊かな私生活を実現していること。そしてビジネスとしても?ビジネス人材の意識が決定的に重要であることを強調しつつ、まさにそのための仕事をしていると語った。実際、彼はジャカルタ市内にそのための事務所も設けており、特にインドネシアへの進出を企図する日系企業への支援を行うためのアドバイザーとしての仕事を手掛けていて、M&Aについても案件があるならば協力したいと述べた。

⇒IFADは、インドネシアの社会、商慣習を理解し、事業目的に則した最新情報を取り込んで、ビジネスパートナーに至当な提案を策定するためのアドバイザリー企業。主なサービス事業として、(1)現地情報分析と提供、(2)広告・PR分野でのサポート、(3)見本市・イベントの支援、(4)日本インドネシア間における高等教育機関への留学生交流など教育・人材面での支援、(5)新規ビジネスの開拓バックアップ、(6)各種のコンサルティング及びサービス提供。

 同社のギギン・プラギナント氏は、インドネシアを代表するジャーナリストの一人。有力誌『TEMPO』の経済・国際問題の編集者をつとめる1998年には、ジャカルタ駐在記者として日本経済新聞社から同社の外国人記者を対象とした日経外国特派員賞を受賞している。これらの経験をもとにインドネシア行政府、政界、軍関係及び経済界に幅広い人脈を形成、アドバイザリー組織の立ち上げに至った。


5月13日(火)

独立記念塔視察(午前)

 ここではK氏に加えて、アチェの研究者で日本の東北大学大学院で研究生活を送っているムザイリン氏も一緒に「独立記念塔」を視察した。

 インドネシア独立記念塔モナスは、ジャカルタ中心部の「ムルデカ広場」の中に静かに佇んでいる。高さ137メートルの白い大理石で覆われたそのスラリとした塔は、残念ながら塔の清掃のため最上部の展望台へ上ることは叶わなかったが、塔の地下にある歴史博物館をゆっくり覗くことができた。歴史博物館には48個のジオラマパネルのブースがあり、私たちは、日本軍の侵攻によるオランダ占領?それはおよそ300年以上も続いた?からの解放という劇的な場面を扱ったブースやその後のインドネシア独立への道を紹介したブースを順に覗いてみた。



広い公園内に堂々と佇む独立記念塔

インドネシア独立記念塔モナスは、スカルノ大統領自らの提案により建設計画が立てられたが、その定礎式典は1961年で8月17日の独立記念日にスカルノ大統領が出席して行われた。完成は1975年のことである。全てを一巡したところに納骨堂を思わせる重厚な扉の門があり、やがてそれが奇妙な音楽と共に開闢すると中からスカルノの肉声による独立宣言の厳かな言葉が流れ出てきた。

日本大使館訪問(16:30-) 

香取大使、青木隆参事官

(仙谷)
 今回のインドネシア訪問の趣旨を説明したい。第一に、ある程度の工業化に成功しつつあるインドネシアでは、農村部をも含めて中間層を育っていくためにも日本のすぐれた農業のノウハウをインドネシアの適地に移転するための取り組みが重要であり、そのためにボゴール農業大学の関係者やアチェの農業関係者を訪問する予定である。

 また、例えば、圧倒的な存在感を示している日本の自動車産業に関して自動車のメンテナンスをなどを行う整備工の充実・育成が求められるように、農業の担い手人材をしっかり育成する仕組みについても併せて相談するつもりである。

(香取大使)
 ただ今のご提案ついては賛同である。自身もそのようなことが重要だと考えていたところであり、日本はその点についてもっと政府を上げて取り組むべきだと思っている。そのために必要な支援を惜しまないつもりである。

(仙谷)
 日本ではいま、建設、介護そして農業の3つの分野で人手不足が顕著になっており、それが今後の日本経済の発展に大きな影響を与えつつある。インドネシアから必要な人材が供給されることを期待している。ただし、その際、送り出し側が、事前の研修を十分に行う体制を作り上げることが極めて重要である。

(香取大使)
 この点についても大いに同意する。具体的な動きがあれば、是非とも協力したい。

クントロ氏との会食懇談(レストラン「オアシス」19:00-)

クントロ氏(Kuntoro Mangkusubroto)、ハニエフ氏(Hanief Arie Setianto)、ルディヤント氏(Rudiyanto)

⇒オランダ植民地時代にオランダ人の邸宅であったというレストランでの会話は終始なごやかな雰囲気の中で行われた。次々と運ばれてくるインドネシア料理を楽しみながら、旧懐を温めるようにして対話が進行した。

(仙谷)
 日本が製造業や金融サービス、あるいはインフラ整備などの面でインドネシアに貢献できていることをうれしく思っているが、今後は日本のすぐれた農業のノウハウをこの地に移転し、付加価値の高い農産物を市場に提供できる農業を育てていくことが大事だと考えている。日本の中央部に位置する長野県に高原野菜のレタス生産で成功し、戸当たり年収3千万円を挙げていることでも知られている川上村という村がある。インドネシアでも都市部を中心に中間層が増えており、高付加価値の高原野菜が消費される時代を迎えている。そこに「安全で、新鮮で、かつ美味しい」野菜が供給できることになれば、インドネシアの農業者が豊かになれる。これは一例に過ぎないが、この川上村はすでにベトナムの高原地帯でレタス栽培を手掛けており、それがホーチミンで人気を博している。インドネシアにそうした適地があれば、日本から優れた農業者を連れてきて、地域の農業者と連携して高付加価値農業を実現することも可能だ。私は、この後、アチェにも訪れて、農業での連携について相談する予定になっている。

(クントロ)
 それはよい話だ。アチェのことも含めて是非とも実現したい課題だと考える。また、東ジャワにそうした適地があると承知している。具体的な場所などについては追って連絡したい。

(仙谷)
 実は、こうした高付加価値農業を実現している日本の農家の場合、そのほとんどで外国人労働力を活用している。川上村でも、人口4000の村に毎年800人規模の中国人労働者が技能実習生として入っている。それが高収入を得る条件ともなっている。しかし近年では、中国自身が人手不足になるほどの状態で、また所得も上がってきたこともあって、年々日本に来る労働力の質が低下しており、トラブルも絶えなくなっている。今後はむしろ、インドネシアから優秀で農業に意欲を持った人材を日本の農村に送り込んでもらい、直接、先進的な農業を実際に体験することを通じて、そのノウハウを身に着けて行くことも有効ではないかと考えている。

(クントロ)
 そのことについても承知した。今後、いろいろ協力していきたいと考えている。


仙谷の話に耳を傾けるクントロ氏

⇒クントロ氏の正式な肩書きは、「大統領府開発管理監査室長」(Head of President’s Delivery Unit for Development Monitoring and Oversight)である。実質的には大統領の目となり耳となって行政府の予算執行や行政目標の達成度を監視し評価することを担っていることから、ここでは上の表記としている。スマトラ島西端のアチェ地方が大地震と大津波に襲われた直後から4年間にわたりアチェ・ニアス復興庁(BRR)長官を務め、そのプロセスでインドネシア国軍とアチェ独立運動との緊張緩和にも努力し、両者の間に和平をもたらしたことでも知られている人物である。

 仙谷由人が副長官として東北地域の復興支援を担当している時に面識を持った。地震・津波からの復興という共通のテーマで強く結びつき、以来、無二の親交を深めた。2012年暮れには、世界銀行主催の災害復興シンポジウムに出席するためジャカルタを訪れ、現地でクントロ氏の仲介でユドヨノ大統領と言葉を交わしている。




宴の後、ほろ酔い加減のお二人が笑みを浮かべて、再会を悦ぶ握手を交わした。


5月14日(水)

東部ジャカルタ工業団地(09:00-)

矢木均所長、吉武洋樹マーケティング&取引関係マネジャー

 八木所長より、同団地の現況について報告を受けたのち、工業用水の確保が近接する河川水のろ過を通じて行われている現場を視察した。このシステムは、同時に排水の浄化をも含むもので、その徹底した水の循環装置が工業団地のいわば生命線ともなっていることを確認した。また、インドネシアで操業をするためには、イスラム教徒の従業員に十分配慮するとともに、団地の中に小さなモスクと礼拝のための施設が整備されることも併せて理解し、その一部を視察した。



河川の水は濾過され、この足元のコンクリートの下に配管されたパイプを通って団地内の工場に提供されている。奥右手には排水の浄化槽が見えている。

⇒1990年に住友商事が会社設立をして運営管理しているジャカルタ東部工業団地(EJIP:East Jakarta Industrial Park)は、インドネシアで最初に民間企業に認可された工業団地である。総開発面積320haの敷地内には日系企業を中心に101社が立地しており、およそ6万人の直接雇用を創出している。

 当初は家電メーカーや電子部品関連が主なものであったが、近年は自動車関連や物流関連が伸びているという。ここにもまた、グローバルな産業構造変動の強い影響が見受けられる。

ボゴール農業大学関係者との会食懇談(17:30-)

 ヘルマント教授(Prof. Hermanto Siregar)
  Vice Rector for Resources and Strategic Studies, Bogor Agricultural
  University

 プリヤルソノ教授(Prof. D.S.Priyarsono)
  Faculty of Economics and management, Department of Economics

(ヘルマント教授)
 私は、大学の対外関係を担当している。本大学(IPB)は、国内4番目の規模を有しているが、もちろん、農業ではトップである。本大学には、農業に関わることなら自然科学から農業経営まですべてワンセット揃っている。

※)ボゴール農業大学の概況

  専門学科 6,000人、 研究科 6,000人、 一般学生 16,500人

  教授陣  1,250人

(仙谷)
 研究者や学生たちは専門家ではあっても、農業を直接担う農業者ではない。問題は、そういった現場の農業者をどう育てるかにある。そのためにも、大きな目標を持つことも大事ではないかと思う。例えば、東アジア地域はもとより、インド・パキスタンや中近東にまで農産物を輸出するような農業の実現を目指す、といったような大胆な発想も必要だ。

(ヘルマント)
 言わんとしていることはよく理解できる。しかし、現状では、牛乳はニュージーランドから、牛肉はオーストラリアからと海外依存するところが強く、国内で輸出力があるものは限られた品種でしかない。

(仙谷)
 もっと付加価値の高い産物を作ることにすれば農家の所得も十分に高くなり、それがまた強いインセンティブになる。それには何よりそうした農業を担う質の高い人材が必要だ。

(ヘルマント)
 その通りである。だが、農業にも差があって一度にはいかないし、伝統的なやり方、作り方を続ける人たちを変えるには時間が必要である。

(仙谷)
 インドネシアでは、どんな経営形態が多いのか。例えば、個人経営や家族経営と、企業的経営、プランテーション、あるいは協同組合といったものではどうか。

(ヘルマント)
 家族経営とプランテーションの2つがメインである。

(仙谷)
 そのどちらがより賃金(収入)が高いのか。

(ヘルマント)
 それは規模の点からも輸出力の点からもプランテーションの方が収益率が高いので、当然そちらの方が一般的に賃金も高い。

(仙谷)
 大学などでいくら研究調査や分析などが進んでも、農業はそれだけでは進まない。やはり農業を担うリーダー的人材を育成することが必要だし、それなくしては質の高い農業を実現することはできないと思う。

(ヘルマント)
 まったくその通りだと考える。われわれの大学でも、実際のフィールドを持ってそうした人材を育てる仕組みを持っている。

(仙谷)
 今朝の『じゃかるた新聞』に、オランダから持ち込んだリンゴ栽培が高地で実績を残していたが、市場にうまく対応できずにいるとの記事があったが、たとえば、この州や県でも高原地帯には日本の農業をそのまま移植できるような適地があるはずだ。そこを立地先として日本とインドネシアの農業者が相互に協力して共同経営のモデル農場を創ることもできるのではないか。

(ヘルマント)
 それはよいアイデアだ。是非とも検討してみたい。

(仙谷)
 日本では建設業や介護事業で極端な人手不足に直面している。農業でも就業者の平均年齢が60歳に達するなど、人手不作は深刻だ。そうした中でも、若い世代や企業家精神旺盛な農業者が創造的な農業を展開して成功例を創り出す例が少しずつ生まれている。その成功例の多くはいま中国からの外国人労働力を利用して成り立っているというのが実情だ。今後は、インドネシアから農業の担い手となる人材を日本に送り込んでいただき、彼らが今度はインドネシアで付加価値の高い農業経営の担い手となるような仕組みも考えたい。日本で先進的な農業を直に体験してもらい、そこでノウハウを蓄積するチャンスとして活用されることを期待している。

 またもう一つ。保冷システムや冷凍車を使った搬送システムなど、生産のノウハウと合わせて、市場志向の一貫システムを学ぶことにもつながるはずである。

(ヘルマント)
 お話はしっかり受け止めた。協力するものがあれば、是非ともまた声をかけていただきたい。

【column】インドネシア国内唯一のリンゴの運命は?

「寒冷な地方で育つリンゴが熱帯のインドネシアでも栽培されている。リンゴ栽培が行われているのは東ジャワ州バトゥ市周辺。人口約20万人の同市は2千メートル以上の山々の裾野に位置する、海抜830メートルの高原都市である。同市内には、温泉、動物園、観光農園、洞窟などのほか、ホテルや別荘が多くあり、週末には多くの人々が訪れる国内有数の観光都市でもある。

 バトゥ市でリンゴが栽培され始めたのは植民地時代の1930年代で、涼しい気候に目をつけたオランダ人が苗を持ち込んだ。その後、リンゴ栽培は拡大し、リンゴを使ったドドール(日本の羊羹に似た菓子)、クリピック(スナック煎餅)、リンゴ酢などが作られ、リンゴを自分で摘める観光農園も拡がった。しかし、1980年代以降、他の果物や高原野菜、花卉など、より儲かる産品への転換が進み、その耕地面積は最盛期に比べて5分の1ほどにまで減ってしまった。

 実は、バトゥで栽培される野菜や果物には有機肥料を使うのが一般的で、リンゴもそうだった。けれども成果が上がらず、辛抱しきれずにリンゴだけは再び化学肥料に戻ってしまった。リンゴの木は剪定されずに空高く伸び、果実は直径5〜6センチと小さい。このため、価格はキロ当たり2600ルピア(約22円)と安く、甘みが少ないことから質でも量でも輸入リンゴに対抗できない。

 リンゴはもうダメだ、と地元の人は言う。大量のリンゴ輸入のせいだとする声もある。しかし、厳しい言い方をすれば、これは、付加価値を上げる栽培・加工上の工夫を追求できなかった結果である。」

 (「松井和久のスラバヤの風25」より)


5月15日(木)

ボゴール熱帯植物園視察(午前)

 この日の午前は、限られた時間の中ではあったが、広大な面積を持つボゴール植物園を視察した。結局、そのほんの一部を散策しただけにとどまったが、その実に多種多様な植物資源の豊富さに驚嘆するばかりであった。



この日は週末ということもあって、家族連れや若者たちの姿が目立った。ここは、市民の憩いの場でもあるのだ。


植物園の前身は、オランダ総督府の庭園であった。この白亜の建物は、現在では、迎賓館の役割を担っている。

【column】ボゴール熱帯植物園

ここは、インドネシア・ジャワ島にある東洋最大規模を誇る熱帯植物園である。もともとはオランダ総督の庭園だったが、一時期イギリスが支配した19世紀初頭にイギリス風庭園として改造されたものが現在に残っている。のちに再びオランダ人の手に戻った後、今度はジャワ人が家庭で植栽するものや薬用植物などを加えている。いまでは園芸と農業の資源を収める貴重な公園ともなっている。また、そのスケールの大きさだけでなく、世界最大級の植物種を集積しているという点で研究者の強い魅力となってもいるという。毒矢に使われる樹液を出すことで恐れられた<ウパスの木>や<王様の木>と呼ばれるメンガリスや通称<赤いラワン>と呼ばれる巨木が熱い日差しを遮っている小径が特に印象的であった。

ペタ記念博物館訪問(12:30-)

 インドネシアと日本との深い歴史的関係を理解するためにも、必ず立ち寄ってもらいたいところがあるとK氏が奨めたのが、この<ペタ記念博物館>であった。暑い日差しの中、ボゴールからジャカルタへの電車に乗る前の僅かな時間を利用して、とりあえずそのユニークな記念館を訪れることにした。


ボゴール市内にあるペタ記念博物館。中には、日本の軍人達と一緒になって軍事訓練を受けている場面などが壁面に刻まれままたくさん保存されている。


インドネシア独立のため日本軍に反乱を起こした「Shodancho(小団長)」スプリアディ

後にインドネシア国軍初代司令官となったスディルマン「Daidancho(大団長)」

【column】歴史を刻むペタ記念博物館

ボゴールで過ごす時間はもう余り残されていなかったが、私たち一行にはどうしても立ち寄りたい所があった。PETA記念博物館がそれである。正門を抜けると、その前庭に二つの起立した等身大の像が両脇に建っていた。一つはスディルマン将軍(団団長)、もう一つはスプリアディ将軍(小団長)と記されている。

 PETAは、郷土防衛義勇軍の略称。太平洋戦争時代に日本軍政下のおかれた東インド(インドネシアは当時まだそう呼ばれていた)のジャワで、民族軍として結成された軍事組織である。これは、現地戦力を補強すると同時にと独立軍の結成と住民の武装化を掲げる一部の将校たちの行動が反日運動に荷担することを防ぎたい日本軍政側と、日本軍が撤退した後再びオランダとの独立戦争を戦わねばならず、そのための自前の民族軍設立の創設を求めたインドネシア民族主義リーダーたちとの妥協の産物として誕生したものだった。

 この軍事組織は日本軍の主導の下に、日本式に500名規模の大団の下に中団、小団、分団を以て編成され、終戦時には、全国に66団、およそ3万6人の大部隊となっていた。その中には、後の第2代インドネシア大統領スハルトの若き少将の姿もあったという。

 しかし、日本軍政当局が民族独立の約束を果たさず、住民支配を強めていったことに反発し、インドネシア人の将校と兵士からなる自前の民族独立軍を立ち上げようとする動きが強まった。こうした動きに連動するかのようにして各地で反乱が起こり、その一部は公然と日本軍に敵対するまでになった。そして1944年2月14日、ジャワ東部で日本軍指揮下で訓練を受けた一団が蜂起を起こし、4人の日本人が殺害されるという事件にまで発展した。蜂起は直ちに鎮圧され、関与したインドネシア人6人が処刑された。首謀者とされたPETAの小団長スプリアディは混乱の中で行方不明となり、その行方は最後まで判らないままとなった。彼は、インドネシア独立宣言後、その功績を称えられて、発足した正規軍の初代司令官に任命されたが、新たな国造りに臨むインドネシアの国民がその勇士を見ることは二度となかったのである。これに対し、実際上の初代国軍司令官に就任したのがPETA大団長であったスディルマンだった。彼は日本敗戦後の対オランダ独立戦争の陣頭指揮に当たったが、結核におかされ、独立達成直後に35歳の若さでこの世を去った。

『じゃかるた新聞』インタビュー(17:00-)

 臼井研一編集長、中村隆二社主

 この時のインタビューは、翌日、『じゃかるた新聞』朝刊の一面に開催された。そのリードにおいて、《民主党政権で官房長官を務めた仙谷由人氏(68)がインドネシアを訪問中で、政府高官や農業関係者と精力的に会談を続けている。15日、じゃかるた新聞を訪れた仙谷氏は、「インドネシアで中間的な技能者を養成することが急務。日・イ両国に利益がある」と強調した。》と紹介している。

【column】ジャカルタに居住する日本人商社マンを囲んで

 ジャカルタに戻った日の夜、私たちは、当地に暮らす二人の日本人と会食することになった。一人は、K建設海外事業部の開発事業の一翼を担う現地法人アスナヤン・トリカリヤ・スンパナ社の社長大石修一さんである。もう一人は、在インドネシア日本大使館の貴島経済担当公使である。落ち着いたレストランの雰囲気に満足感を覚えるとともに、通訳なしで会話がはずむ自由な気分に酔いしれて、時間があっという間に過ぎていった。仙谷さんも旅の疲れを忘れて、談笑に浸った。

 大石さんは、現地の生活が長く、スナヤン開発を手がけると同時にジャカルタ在住の日本人の世話役も担っている。帰りのタクシーで、「彼のような人物がこれからも日本とインドネシアを繋ぐ大事な役割を担っていくのであろう」と仙谷さんがぽつりとつぶやいた。


5月16日(金)

アチェ州農政局訪問(17:00-)

 ラザリ局長(Razali Adami)ほか数名
  Kepala of Dinas Pertanian Tanaman Pangan Ache

(ラザリ局長)

 農業については、まだまだたくさんの課題があり、一つ一つについて議論を進めていきたいと考える。ここでは米、大豆、トウモロコシの3つが戦略的な農産物として位置づけられているが、その他の野菜や果物などの品種も取り扱っている。また、大まかに言って、低地農法と高地農法の2種類があり、後者ではトマトやキャベツなどの野菜類が主に生産されている。

 そこで最初にいくつかの課題についてお話ししたい。

 第一は、種子の問題である。現状は農家が自作の種子を確保しているケースがほとんどで、いい種子を手に入れるチャンスない。いいものをどう持ち込むかが課題となっている。

 第二は、収穫後の処理がよくないことである。このため、商品としての劣化が激しいのが現状である。

 第三は、農業の機械化が遅れているということである。日本の農業機械、とりわけSATAKEの機械を普及させたいと考える。

 第四には、その上、農業知識がまだまだ低いというのが実情である。そこで、日本の技能実習制度を活用し、日本の優れた農業を体験する機会を大いに増やしたいと考えている。そのためのご協力も是非お願いしたい。

(仙谷)
 
インドネシアの地域がまだまだ豊かな可能性を有していることは承知している。大津波の被災を受けたアチェ州が見事な復興を成し遂げていることをお聞きしてもそう考えるが、ここから先は、農業をはじめとして一人ひとりがさらに豊かになるための努力が必要であり、そのためにできるだけのお手伝いをしたいとの想いでいる。

 そこで、この地域の自然環境や地政学的条件をよく知り、都市に急増しつつある中間層をターゲットにして、どのような農業を発展させていくべきなのか一緒に考えていきたい。いま、この東アジア地域でも、シンガポール、バンコク、香港、ジャカルタなどの成長都市では<安全で、新鮮、かつ美味しい>食材を求めるニーズが強くなっている。先ほど、良質な種子や収穫時の処理などについてお話しがあったが、それらをいわば一つのパッケージとして捉えて、トータル・システムとしての現代的な農業の在り方を模索していく必要がある。そのための基本的な調査も重要だ。

 これと並行して、農業の担い手の「能力」を上げていくことも考えなくてはいけない。例えば先日、ジャカルタで、収穫したもののおよそ3割が市場では売り物にならないほど毀損していると聞いたが、こうした現状を克服するためにも、収穫時の機械の取扱をはじめ冷凍貯蔵や保管、パッケージや搬送システムに関するノウハウをしっかり身に付けた担い手を育成することが大事だ。それにはまた、この地域に農業専門学校を作り、若い人たちにそれを実践的に伝える仕組みを工夫することも大切である。日本にはそうした農業教育の成功例もあるので是非ともそれらを参考にされるとよいかと考える。

 加えて、今し方そちらからもお話しがあったが、農業実習生をどんどん日本に送り込んでもらいたい。日本でも成功している農業者のところに送り込めば、よい体験をして優れた技術やノウハウを身につけることも可能だと思う。

 それからもう一つ、この地域にモデル農場を設けて、そこに日本の農業者と地元の農業者とが一体となって日本の農業システムのよいところを試行的に行うことも提案したい。そのためには、アチェの自治政府が中央の政府にこの件を持ち上げて、日本とインドネシアの両国政府間に合意や協定を結ばせることも重要だと考える。

(ラザリ局長)
 日本などの支援もあり、アチェ州の復興はもう大丈夫。まさに、これからはアチェ州の経済発展のために全力をあげていくことが重要だと思っている。機械化の問題など課題はいっぱいあるが、何よりも人材の問題が一番。そういう意味で日本とアチェとの協力関係を大いに重視したいと考えている。仙谷さんのご提案を大いに歓迎したい。

 ご提案のうちのモデルとなりうる農業適地については、バンダ・アチェ市から300kmの地帯にあるアチェ州中央部のタケゴンという高原地帯がある。標高1300〜1700mの高原地帯で、いまでも野菜を主に栽培している。コーヒーやオレンジ、ジャガイモなどが主な産物である。


日本側の説明を聴きながら、熱心にメモをとるラザリ農政局長(右から2人目)

【column】アチェの愉快な仲間たち
             〜
ユディ市議会副議長夕食懇談

 市内でも評判のホテル「ヘルメス」でチェックインを済ませた後、辺りがもう薄暗くなった頃、一行は目当ての人物に会うため、次の場所(レストラン「インペリアル・キッチン」)に向かった。アチェ市議会議長のユディ(Yudi Kurnia)さんとの会食である。まだ40歳を過ぎたばかりの彼は、気取るところのないしなやかな物腰の男だった。間もなく副市長に昇格する予定だとも教えられた。その彼を取り囲むようにして、アチェの仲間がレストランに集った。ムザイリン(Muzailin Affan)さんは、ついこの間まで東北大学大学院に通っていたリモートセンサーの研究者で、アチェの大津波で両親と弟を失い、それきっかけとして、津波防災のための構築物やシステム、災害の際の避難の在り方について研究をしたいとの想いで日本に渡ってきたのである。ファドリ(Nur Fadli)さんは、ムザイリンさんの友人で、大学で水産業を専門としている若手研究者である。そこに少し遅れて、彼らより年配のタウフィキュさん(Yusya`Abubakar)が現れた。彼は、北海道大学農学部に在籍したこともあるという、日本語も上手にこなす研究者だ。インドネシアではインテリである条件として皆、研究者の資格を取得することが少なくない。しかし、ここに集った人たちはそうした肩書など一切お構いなしの気さくな連中ばかりだった。

 郷土色豊かな食事を囲みながら、私たちは、アチェと日本との繋がりがどんどん強くなることを望んでいると伝えた。これに対してユディさんが自ら日本とアチェを結ぶ役割を果たしたいと応えた。

 私たちはここが異国の地であることを忘れて愉快な時間を過ごした。むろん、こちらはビールを、彼らはノンアルコールを手にして。

  


5月17日(土)

ポリテクニクセンター(農業専門学校09:00-)

 アンハル学校長(Prof. Dr.Ir. Amhar Abubakar, MS)
  Direktur, Politeknik Indonesia Vnezuera(POLIVEN)

 ジャスマン教授(Prof. Jasman J. Ma`Ruf, Ph.D, MBA, SE)
  Facultas Ekonomi Universitas Syiah Kuala

 エリー女史(女性、Dr.Ir.Elly Kesumawati, M.Agric.Sc)
  Faculty of Agiculture Syiah Kuala University

 タウフィキュ氏(TAUFIQ SAIDI, Dr.Eng.)
  Lecturer, Civil Engineering Department Syiah Kuala University

(仙谷)
 昨日、ここの農政局を訪問し、復興を成し遂げたアチェ州では、これからは農業の振興が大きいとの話をした。日本でもいま、農業について6次産業化の取り組みなどを推し進めて、高付加価値農業の確立をめざしており、これに成功しているところでは農家収入が飛躍的に伸びて豊かな農村を実現している。その決め手となるものが、優れた担い手の育成である。

(アンハル学長)

 ご承知の通り、この施設はアチェ州の震災復興のためにと、ベネズエラからの支援を受けて造られたものある。しかし、ベネズエラ政府はここの運営に一切干渉していない。人材の育成もこの努力でやっている。

 インドネシアは国土の8割は農業適地。しかし、農村部は過剰人口を抱えたままで、この学校の卒業生にも十分な就業の機会が少ない。

 教授陣も決して満足のいくものではないが、ここでは農業機械を自分たちで作ったり、養殖技術(水産部門も持っている)を習得したり、食品加工についても力を入れたりしている。しかし、どの部分も不十分ところが多く、多くの支援を必要としている。

 そこで、日本に対して大いに期待したい点がいくつかる。一つは、教授の相互交換である。研究や実証の面で、日本の優れた農業研究を是非学びたいと思っている。もう一つは、農業実習生の受入である。日本の農業を直接体験できることが可能になるのであれば、ここの学生たちも是非とも日本に行きたいと願っている。

 ここで我が校のビジョン及び使命について触れたい。それは、3つの目標と6つの使命からなっている。

<3つの目標>

 1.農業技術と知識を集約した農業を目指す。

 2.農業・農村工業を発展させる。

 3.国際競争力を持った農業を育てる。

<6つの使命>

 (1)機械化農業を発展させる。

 (2)すぐ働ける人材を送り出す。

 (3)農業の自立とそのための担い手を創り出す。

 (4)農業機械の修理などを可能にする。

 (5)農産物加工分野で貢献する。

 (6)すべての潜在力(自然資源・気象・地政学的条件など)を高めて生かす。


アンハル学校長は、当校の概要を説明した後、参加したメンバーの行司役に徹していた。

(仙谷)
 日本にはODAがあり、技術協力や人材支援にかかる無償援助もある。しかし、それらはインドネシア政府からの要請がなければ発動されない。アチェ州の側からアクションを起こして、中央政府を動かす努力が必要だ。ここにはJICAの人も入っているのだろうか。そうであれば、そこと相談して要請内容を詰めておくことも大事である。

 また卒業生か在学生を日本へ技能実習生として派遣することも是非検討してもらいたい。あるいは、このポリテクセンターに日本語学校を併設して、日本への人材派遣の環境を整えることも重要なことである。

※ここで、メンバーの中から、「私たちにとっては、農業機械を駆使した農業をすること自体がユートピア。是非、農機の提供を応援してもらいたい」との発言があったが、これに対して仙谷からは「農機を援助してもらうだけで農業の生産体系が変わらなければ意味が無い。むしろ、ここにいる皆さんが日本の機械農業の現場を視察されることから始めることも一つだと思う」とのコメントがあった。


アチェの農業の未来まで熱く語る仙谷。誰もがその熱意に引き込まれていった。

⇒アチェ農業専門学校の正式名称は「州立インドネシア・ベネズエラ・ポリテクニック」である。津波被災からの復興のためにと、ベネズエラ政府がここに農業復興のためのセンター設置を支援してくれたのがそもそもの成立事情である。ただし、ベネズエラはこの施設の運営には一切関与していないという。

 また、ここにはアチェ州最大の国立大学であるシアクアラ大学の教授陣が配置されている。実は、先に紹介したムザイリンさんもこのシアクアラ大学機械工学科の助教授として東北大学に招聘され、日本にやってきた一人だった。

 私たちを迎えたアンハル学校長は、物静かで知的な印象の人物であった。仙谷さんが昨日と同様の話を始めると彼らはじっと耳を傾けて、その内容を少しも漏らすまいとの真剣な眼差しを崩さなかった。学校長からは、ここにも人材は大勢育っているが、農業機械の不足や農業関連へ就業する機会が少なく、その成果が十分に生かされているとは言えない、と述べた。本専門学校の使命は、農業機械の開発普及と農業自立のための人材を供給することにあるとしているが、まだまだ課題も多いようだ。

 この後、土曜日だというのに、わざわざ声をかけて集めてくれた学生たちの前で仙谷からアチェ訪問の目的とともに学生たちに向けた挨拶を行った。


仙谷さんの挨拶にじっと聞き入る学生たち。皆、日本に行きたいと願っている。

バンダ・アチェ市長との会食(13:30-)

 イリザ・サァドゥディン・ジャマル(Illiza Sa’aduddin Djamal)市長        

 前任者の辞任により突如、副市長だった女性のイリザさんが新市長となった。もともとは市会議員を務めていた彼女だったが、いまでは街の顔として多忙な日々を送っているとのことだった。私たちの面談が一度はキャンセル状態になったのもそのためだった。

 イリザ市長は、インドネシアの中でも敬虔なイスラム教徒が多いとされるアチェ人らしく、黒のジルバブで頭部を覆い、女性らしいピンクのチャドルをまとって現れた。ムザイリンさんが市長の側に座って彼女の通訳とアドバイスを引き受けている様子だった。

 仙谷が話題の切り出しに言った。

「昨晩もアチェの料理をおいしくいただいたが、どうやらこの土地の料理には生野菜が少ないように思う。」

 イリザさんが冗句を交えてこれに応じた。

「青い野菜は、アチェでは山羊が食べるものって、思っているのよ。」

 もちろん、われわれは貴重な時間をこれだけの話で過ごしたわけではないが、もともと儀礼的な側面もあった昼食会を多忙な中で設定してくれたことだけでも感謝しなくてはいけない、と思った。


ピンクのチャドルを纏ったイリザ市長。手前はムザイリン氏。

【column】アチェ大津波の跡を歩く

バンダ・アチェ市長との面談が市長側の事情で予定変更となったが、午後なら何とか時間をとることができるというので、少し遅めの昼食会に招かれることになった。それまでの間、一行はムザイリンさんの車で大津波の跡を尋ねて回ることにした。日本のテレビ報道で見たあの悲惨な津波の現場は、いまでは静かな海辺を覗かせているだけだった。けれども、ムザイリンさんが右手の指を背の伸びた椰子の木に向けながら言った。

「あの木の高さまで波がせり上がったんだ。」

 あとで、その津波の高さを記録する記念塔が市内のあちこちあることを教えられた。私たちは、その一つを見つけてカメラに収めた。それは周囲の樹木の丈を超えるほどの高さだった。