※「民主党機関誌『Dier』(第15号、5月1日発行)のために仙谷議員が執筆したものです」

テレ目八目

※もとの言葉は「岡目八目」=他人の囲碁を傍で見ていると、実際に対局しているときよりよく手がよめるということ。転じて、局外にあって見ていると物事の是非、利・不利が明らかにわかること(広辞苑)

2002.3.25.

仙谷 由人

 生まれて初めて、長期の入院と療養を要する病を得た。

 主観的には 生きるか死ぬかという気分に追い込まれると、他人のこと、社会のこと、政治のことを考えるのも億劫になる。

 生来、横着でものぐさな人間であるから、折角この機会に読めと贈って下さった御見舞の本には容易に取り掛かれない。成り行きとして、テレビの番をすることになってしまう。

 日中のテレビ放送を殆ど見る機会のなかった者として、それなりの発見もあったが、何よりも、これでもかこれでもかと手を替え品を替え放映される“グルメ番組”の多さには、胃全摘手術のあとだけに辟易した。と同時に、もしこれが、視聴率を取れるとするならば、日本の経済の現況は、“飽食の不景気”という、倒錯した状態であるといわなければならない。

 倒産、失業、自殺が増加し続け、明日の生活への不安が深刻化しつあっても、全体としては、60年代からの高成長の結果としての「豊かさ」は続く、もしくは回復できるという気分のなかに浸っているといっても過言でないように感じられる。

 朝となく昼となく流されるワイドショーもまた日本の現実である。病を得る前は、全くと言ってよい程見ることのなかった時間帯に、通常は芸能人のあれやこれや、1月31日以降は「真紀子・宗男“報道”」が、切り取られた場面を繰り返し繰り返し流すという手法で行われた。これによって世論の少なくとも半分の流れが形成されるとすれば(されたかのように思ってしまう)、これは余程、このことをも与件として取り組むことが必要だなと改めて感じた。

 真紀子外相更迭による小泉首相への風当たりは、私には、メディア とりわけワイドショー観客をターゲットにした組閣や、スローガン、パフォーマンスが、裏目にでると、当然のことながらブーメランのように返って来るなというものであった。

 メディアを意識しない政治行動は“阿呆”だといわれかねないが、ポピュリズム組閣や、ポピュリズム政策は、メディアの増幅のなかで、国民を幻想と絶望の大きな振幅をもった揺りかごに投げ込むだけではないかと実感する。

 政治にはつきものだという意識はもちつつも、古くて新しい政治手法である利用主義や操作主義を意識的に少なくすることが、遠回りのようで、王道だと思う。

 民主党は「寄せ集めでバラバラだ」というメディアや評論家の聞き飽きた常套句にまどわされたり、必要以上にこれを意識するのはバカげている。

 今、多様性のない集団はないといってもよく、またこれを認めあわない画一性や平均追求が、日本の閉塞の原因だと切り返せばよい。

 民主党内の意見の相違は、権力を行使する立場になく、統治の責任感を実感する立場にないことによるもので、その立場に立ったとき、容易に、いい意味での妥協や、相違する見解に この場は委ねてみようという度量によって解消されるレベルである。

 テレビ桟敷からのもう一つの感想は、民主党の軸が必ずしも伝わっていないということである。今、日本が、弥縫策(びほうさく)や手直しでは、いかんともしがたい状態に陥っていることは民主党で政権交代の志を持ち続けている誰もが、否定しないところであろう。

 つまり 言葉だけの構造改革では21世紀を拓くことはできず、結局、根本からのというか、政権交代と革命的改革を同時に行うしか、もう出口はないことを覚悟し、これを自らの信念として、強く繰り返し述べ続けなければならない。

 テーマは、経済・金融・財政 そして、アジアの中でどう生き抜くか、そして教育、雇用、分権システムである。