2000年02月24日 憲法調査会

○中山会長 次に、仙谷由人君。

 

○仙谷委員 参考人の青山先生に、本日の御意見の陳述、ありがたく御礼を申し上げます。どうも御苦労さまでございます。

 先生の教科書といいましょうか、「憲法講義」という御著作もちょっと拝見をいたしましたが、目線が、押しつけられた、押しつけたという議論は、当時の為政者あるいはその周辺にいた人については、確かに経緯としてはそのような事実経過があったんだろうなとわかります。

 ところが、一つ先生にお伺いしたいのでありますが、沖縄という存在がございます。

 昭和二十年三月二十六日から戦闘が始まって、四月一日には沖縄本島へ米軍が上陸した。その後、一九七二年でございましたか、いわゆる沖縄返還に至るまで、占領下の時代と、サンフランシスコ平和条約以降の施政権をアメリカが持った時代、こういうふうになるわけですね。こういう状態は、押しつけられたとか押しつけたとか、盗まれたとか強奪されたとか、こういう議論からいうとどういうことになるのですか。

○青山参考人 私がそういう主張をしているということですか。

○仙谷委員 いや、違います。沖縄の状態を、押しつけられたとかというレベルの議論でいえばどうなるのか、どういうふうに理解したらいいのか、こう言ったのです。

○青山参考人 戦争に負けますと、どういうふうに戦後を解決するかというのは当事国が話し合うことで、その中で沖縄は、施政権を一応向こうにやって、我が国は潜在的主権を確保するという形でもっていった、そういう約束事でやったわけです。ですから、沖縄の住民にとっては非常にかわいそうな状態になったことは間違いないです。でも、戦後の解決策としてそういう方途がとられたという事実問題にすぎなくて、沖縄の人には本当にかわいそうだったですが、日本政府としていいかげんにそれをやったとは決して思っていないんです。

 向こうも、将来の国際情勢なんかを考えますと、やはり支配してみたい地域もあったと思います。ソビエトなんかや中国なんかも、中国なんかは軍隊をどこに置かせろと言ってきましたし、ソビエトは現実に北方領土の方に進駐してきました。これについても私どもは不満を持っていますけれども、負けてしまいますと理想どおりの解決はできません。ですから、少し犠牲になってしまったということだと思います。

○仙谷委員 そうしますと、北方領土の問題も同じような問題だとおっしゃるのであれば、それはそのとおりでしょう。要するに、戦争に負けてポツダム宣言を受諾して、力によって強制された状態が、少なくともサンフランシスコ平和条約のときまでは続いた、沖縄について言えばこういうことですね。

○青山参考人 沖縄はもっと後までです。

○仙谷委員 サンフランシスコ平和条約及び安全保障条約によって、強制されたもとだとはいえ、ある種の選択を日本政府がした、こういう理解でいいんじゃないですか。

○青山参考人 そのとおりだと思います。日本政府がそのようにやってしまったということですね。ですから、北方領土もそうでして、事実上向こうが違法な支配を続けていますが、こっちの方はアメリカとは違って解決できないものですから。沖縄は、佐藤栄作総理大臣のときに一応努力をしまして、こちらに戻すという形をとったということだと思います。

 しかし、負けますと、何が何でもこちらの思うとおりに解決するということは難しいものですから、かわいそうですが、やはり犠牲になる人が出てくるということで、沖縄の人に対しては私も本当に申しわけないと思っています。

○仙谷委員 そうすると憲法も、戦争に負けてポツダム宣言を受諾して、占領軍が乗り込んできて、法理論的に事のよしあしはともかくとして、あれやれ、これやれと言われて、そのとき我々の先輩が、みずからの思想信条を押し殺してくしゃっとなってしまった、はい、いただきますと受けてしまった、それもある種の主体的な選択ですね。

 そこで、お伺いしたいのですが、私は別に、共産党の方とか古い時代の社会党を応援しようとかなんとかいう気持ちは全くないですよ。共産党の戦後史に果たした役割というのは、プラスの部分もマイナスの部分も正確に認識しているつもりですから、そのつもりは全くないですけれども、きょうお越しになった、先生を含めて二人の参考人が、社会党と共産党のことを言われるけれども、当時の自由党と進歩党のことを全然言われない、おかしいなと思ってさっきから聞いていたんです。

 それで、この憲法制定過程における自由党と進歩党というのは、何を考えて、憲法草案をつくったのかどうなのか、その憲法草案はどういう内容だったのか、御存じであればおっしゃってください。

○青山参考人 私が、なぜ社会党、共産党に触れたかといいますと、いわゆる報道において護憲勢力と改憲勢力という二つに分けられていますから、事の本質をとらえなくちゃいけないということで、政党を意識したのではなくて、たまたま、むしろ報道がもう少し正しく報道した方がいいんじゃないかということで。自民党は、党の綱領でたしか全面的な憲法の改正を言っているようですから。自主憲法だと思いますけれども、それをはっきり言っています。それに対して、報道がどうも、憲法記念日が来ますと護憲、改憲とやるものですから、この憲法制定過程もそうですが、やはり真実を報道してほしいということで、先生方は皆さん御理解だとは思いますけれども、ちょっと念のため触れてみただけなんでして、別に他意はありません。

 自由党とか進歩党、法案を全部詳しくは見ているわけじゃないのですが、進歩党の場合、珍しく、宣戦にかかわる規定を要綱の中に掲げていると思います、たしか要綱だったと思いますが。ですから、あの政党だけは、ちょっと戦争に関して一言だけ触れている政党だったと思います。ほかの政党は、この軍事の問題は、私の記憶ではどの法案も触れていないはずなんです。

 まともでしたら、私は、触れない方がまともなんだと。なぜかというと、先ほど申し上げましたように、当時は軍が解体されていますから、触れても触れなくても、法的には何の意味もなかった。だから、それは触れるべきときに憲法の問題として審議すればよかった問題で、触れないのがまともであったんじゃないか。

 ただ、実際には、当時の自由党政府を含めて、占領軍の言いなりになっていたんじゃないかという気はしています。強いものがあったわけじゃ決してない。ただ、強いものを出すとどうなるかというと、その後またパージが行われるということもありましたから、かなり遠慮があったんじゃないかと思います。

○仙谷委員 いや、先生本当に御存じないのですか。自由党の憲法草案、進歩党の憲法草案、御存じないですか。

 つまり、先生がお書きになっておるものでも一番はっきりしているのは、押しつけられた、押しつけた、その話の中で、中身というか一番重要なところは、まさに国体論争であった。天皇主権をどうするのか、天皇の地位をどうするのか。

 大日本帝国憲法、第一条から第十七条まで天皇の規定があるのですよ。天皇主権、天皇大権じゃないですか。そういう大日本帝国憲法を維持するのかどうなのかというのが、当時ポツダム宣言を受諾する前後から憲法制定にかけての最大の問題であったわけですよ。

 その点について、自由党と進歩党がどのような草案をつくったのかということを御存じないですか。

○青山参考人 私は、残念ながら詳しくは見ていないものですから、九条にかかわるところはよく見ているのですけれども。

 ただ、天皇主権というのを強く打ち出すということは、当時の姿勢としては言えなかった時代ですからね。

 

○仙谷委員 いや、だから、そうじゃないから僕は言っているのですよ。

 いいですか。例えば自由党の憲法草案は、「統治権の主体は日本国家なり」というふうには書いてあるけれども、「天皇は統治権の総攬者なり 天皇は万世一系なり 天皇は法律上及政治上の責任なし」ということを堂々と書いてある。それから、進歩党は、ほとんど大日本帝国憲法と変わるところがない。そして、人権規定については、国民の権利義務ではなくて、「臣民の権利義務」というふうに書かれてあった。

 つまり、物事の発想が、当時の政権党たる自由党、進歩党ですらそのとおりであって、そのような考え方が松本私案なり宮沢甲案、松本乙案とか、そちらの方に引き継がれていくというのが、ある意味でGHQに、こんなことでは困るじゃないの、ポツダム宣言の趣旨を全く理解していないんじゃないのと、こういうある種の介入を許した相当の原因なんじゃないですか、これは。

 そして、もう少し言うならば、自由党と進歩党は、憲法審議が始まったら、マッカーサーからいただいたのか何か知らぬけれども、その憲法草案に、ありがとうございます、これで結構ですと言ったんじゃないですか。そういう経過でしょう。

○青山参考人 当時は、やはり国体の護持というのは大きな国民の願いではあったんだと思うのです。それをマッカーサーが国体の護持はだめというようなことまで本当に考えたかどうかというのは、ちょっと私は疑問だと思っているのです。ただし、もう少し平和的な方向に早く持っていかないと四囲の状況から天皇の戦争責任の問題が起きてくるからということですね。ですから、大日本帝国憲法の主権の所在がどうこうというよりも、むしろそっちの方がねらいであった。

 そのときに、いかにも国体の護持の方に我が国の戦後の論文の書き方が注目されてしまって、占領軍は民主化、民主化ということで来たんだ、そこで憲法を変えさせたんだということですが、民主化に来たのは間違いないのですけれども、憲法まで変えろという民主化であったかどうかということは、それは私は疑問だと見ているのです。ただ平和的憲法をつくるということの方が、急がせるところであったんじゃないか。

 マッカーサーも、マッカーサー・ノートの第一の第一項で、天皇を国家の元首に、訳はいろいろな問題がありますが、ヘッド・オブ・ザ・ステートという言葉を使っている。ですから、ヘッド・オブ・ザ・ステートという形は認めているのですね。ただし、GHQの方は、マッカーサーの思惑と違って、かなり動いたところもあるようです。ですから、大日本帝国憲法の改正まで本当に占領軍が最初から考えていたかというと、私は疑問視しているのです。幣原さんなんかと会ったときに全然言っていないですね、九月に二回会っているのですが。

○仙谷委員 話をそちらに進めますが、先生の御著作の中にも、四五年の十月八日に近衛公がアチソン大使に会って、十二項目の、要するに指示といいますか、十二項目の訓令を伝達するという格好でしょうか、そういうふうにされた。それは、きょう、この調査会に資料として配付されましたSWNCC?二二八号という、国務・陸軍・海軍三省調整委員会文書の中身とほぼ同じであったというふうに先生は書かれていますね。

 これを見ますと、ポツダム宣言でいいますと、先ほど先生が、そこまで言っているかどうか疑わしいとおっしゃるんだけれども、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テ」という表現がございます。ポツダム宣言が四五年の七月二十六日です。

 それから同時期に、当時、四五年の四月二十五日から六月の二十六日にかけて、将来国連憲章として発効することになる憲章案がサンフランシスコ会議で討議されておって、六月二十六日、つまりポツダム宣言をさかのぼること一カ月前に連合国五十カ国で署名されているのです。その中にも、一切の国民がみずからの政体を選択する権利があるんだ、こういうことが明記されているのです。

 それで、連合国司令官も、マッカーサーも、あるいは後に憲法改正作業を具体的に担当することになるGSですか、先生おっしゃるように。そういうところに対する影響といいましょうか、国際的な思想的潮流、つまり、そもそも民主主義を奉ずる連合国が、軍国主義やナチズムに対して勝ったんだ、勝つんだという前提で、民主主義と、つまり国民主権と基本的人権、平和主義、この流れの中でGHQはあったわけですから、私が先ほどから申し上げておる大日本帝国憲法の、天皇主権で軍事大権、つまり、統帥権から、戒厳令の権限から、立法権から、何から何まで天皇にしかないような憲法がそのまま解釈の方法によって通用すると考えることの方が、これは私の世代の後講釈でありますけれども、ちょっと想像力に欠けた人たちが多かったんだな、鈍い人ばかりだったんだなと。まあしかし、内部には野村さんとか想像力の欠けていない人もおったようでありますが、そういうように理解するのです。

 だから、これは、さかのぼれば、ポツダム宣言をなぜ受け入れたのか、戦争に負けたからだ、なぜ戦争に負けたのだ、この戦争をやった責任はだれなんだ、全部なぜなぜでずっとさかのぼっていきますよ。あるところから押しつけられたというところだけ取り出せば、それはそのとおりですよ。何で押しつけられたんだ、戦争に負けたんだ、何で戦争に負けたんだ、その戦争はだれがやったんだという話になってくると、東条だ、東条だけの責任じゃないじゃないかという話にもなる。いかがですか。

○青山参考人 マッカーサーは、グルー大使なんかの進言もありまして、天皇制に対する認識を非常に変えておりまして、それから、ポツダム宣言なんかを起草した場合に、大日本帝国憲法にそう敵意を示していたわけじゃないのです。

 ですから、三軍調整委員会なんかは非常に厳しく天皇の権限を奪おうとしてきますが、ポツダム宣言は二十六日ですが、二十九日ぐらいに、この宣言の目的を示した案を出すのです。その中で、これは約束事だということを言いながら、必ずしも大日本帝国憲法の天皇制を大きく動かせというような趣旨を定めたものじゃない、ただし、早く降伏させるには、やはり天皇の地位を保証してあげなくちゃいけないということで、これを出すのだという案ができているのです。

 ですから、それは権限は天皇から奪ったって構いませんが、しかし、あの大日本帝国憲法があるから民主化できないなんとは考えてない。国務省の方では考えたものがあるのですが、ポツダム宣言を起草する段階では、変化が生じてきているのです。

 それで、平和的なものにつきましては、一応ポツダム宣言の受諾によって憲法は停止させられますから、ある程度の改正というのは将来必要になるかもしれませんが、その点について早く明示しないと天皇の地位が危なくなる、これを考えたのがマッカーサーじゃないかと思っているのです。ですから、マッカーサーは天皇の地位を守ることで憲法改正を急がせたと私は思っております。そうでないと、その戦争責任を問われるから。

 それを民主化、民主化ということで??民主化を図ろうとしたことは間違いないのですが、それは大日本帝国憲法の規定ではなくて、実質的に、選挙法を変えたり、あるいは貴族院令なんかを変えたりして、あそこでも、庶民の代表でも地位を与えてあげられるとか、学術代表なんかを入れて貴族院をつくるようにしました。そういう実質上の民主化をどんどんやるということは期待していたと思いますが、大日本帝国憲法を民主化、民主化で主張することはどうかと思うのです。改正させたのは、やはり天皇の戦争責任を問う動きが出てきたから、これでは守られなくなるから、これが主眼ではなかったかと思うのです。その意味で、押しつけが出てきたということです。

 ただ、私が言っているのは、押しつけられたというその事実を言っているだけでして、それ以外のことは言っていません。それがいいとか悪いとかは言っていません。私は天皇制は大好きなものですから、よくぞ守ってくれたということは思っておりますが、それを、もう何でもかんでも憲法改正は民主化のため、民主化のため、これが今は強く出過ぎているのではないか、そういう気がするのです。余り国体の護持ということを正面から出せる時代ではなかったのです。それは共産党が言っているじゃないかといいますが、逆さまの方は可能だったのです。ただし、共産党は間もなくレッドパージに遭うようになります。その当初は、共産党の発言が非常に認められた時代なんです。

 ですから、向こうからの発言、俗にいわゆる左からの発言は最初は自由にできたのですが、俗にいわゆる右からの発言となると、相当厳しい時代であった、こういうことです。

○仙谷委員 ありがとうございました。