「野田政権の課題」

2012年4月16日(月)
ミッドランド毎日フォーラムにて講演
仙谷由人

 日本のど真ん中である名古屋で日本社会と日本経済のために中核的にご活躍されている皆様方の御集まりであるミッドランド毎日フォーラムにお招きを頂き、身も細る思いでこの場に立たせて頂いております。

 一昨日、13日金曜日の夜は、野田内閣として、現段階で福井県大飯原発3号機、4号機の再稼働をお願いしようということを関係閣僚会議、四大臣会合で決め、枝野経産大臣が福井に赴き、知事と大飯町長に要請をするということになりました。

 私は、その会議には党の方からオブザーバーとして出席を求められており、一貫して出席しているので、党として何をすべきかということで、従前から、現地の福井県出身の国会議員4名に、四大臣会議で出されている資料や議論の説明をしてきましたが、先週の13日金曜日の前段階として、一度、党の地方議員や推薦する首長、国会議員、支持者に説明をしてもらえないだろうかという要請を頂いたものですから、それでは私が(今は民主党の中で、情報に直に触れている部分が多いということで)福井に入ろうということで、福井にお伺いし、民主党福井県連に集めて頂いた方々に、説明申し上げました。

 当初は、オープンな会にするつもりではなかったのですが、現地の方が今日はオープンでいくということで、カメラも入り、新聞記者もいらっしゃいました。

 当日の説明では、ほとんどが四大臣会合で使われている資料(その段階で枝野大臣が記者会見をその都度しています)も発表していますので、公開資料に基づいて説明をされたとのことでした。私もその資料を公表して説明をしました。

 今、東京電力の引き起こした福島原発事故の影響は非常に大きい。現に風評被害や、何ベクレル以上の商品が出荷されるとか、されないとかいうことで、特に福島県や福島周辺の農業はじめ、業を営んでいらっしゃる方々に現実に影響があります。

 また、子育てをされている女性を中心とした方々にも、食の安全や子供の将来への健康にも大変大きな心配がありますから、いったい日本が原子力発電所という存在をこれからどう扱うのか。とりあえず現時点では、定期検査が終わって、さらにストレステストを行って、現在のシステムである原子力委員会が了解をした段階で、再稼働を国が責任を持って自治体にも理解をして頂く段取りを粛々としていくべきだと私共は考えております。

 しかし、感覚として原子力村に対する国民の皆様の反発と、あるいは信用しないということが根強くあります。これは掘り下げていくと「どこまで続くのか運動」のような話で、論理的には解決のつくような話ではないと思います。

 原子力安全委員会という推進機関もありますが、一言で「原子力村」といわれる原子力の専門家の人たち以外に、原子力に対する本当の意味での専門家が日本にいるのかという話になります。

 当然ながら、私共は専門家でもありませんし、私は小さい時から理科は合格点を取ったことがないことが自慢になるほど、理科が苦手ですから、原子物理学そのものも分かりませんし、原子核をコントロールしてエネルギーに変える技術が、どういう意味を持つのかについて全て理解しているわけではありません。

 また、どうすればうまくコントロールできるのかについても、実際日本の、あるいは世界中の国民の皆様もイメージや感覚ではわかりますが、結局ここは専門家に任せるしかないと思います。その専門家が一挙に、一夜明ければ不信を買うというのが、ここ一年間の事実経過です。

 この人たちに対する信頼が全幅の信頼として回復するために、原子力発電の稼働を現在動いているものを全て止める。あるいは「止めた原子力発電所を一切動かさないようにせよ」という話であれば、その結論に向けてどうするのか。

 ただちに止めた場合に日本の経済と生活がどうなるのか、ということを考えておかなければ日本が、ある意味で集団自殺するようなものになるのではないか、と私は捉えております。

 私自身は徳島で生活しているので、まだ徳島あたりだと停電が一日何時間か及んだとしても、あるいは一日中停電しても、個人的には生活できないわけではないと感じています。

 つまり、あらゆるものが電力によってコントロールされているというライフスタイルではない。ただ、我が家の水道水は地下から汲み上げているので、電気がないと水が出なくなるのかと思ったりしますが、窓を開ければ風は入ってきますからエアコンが無くても生活はできます。お湯を沸かすのはガスですからこれも何とかなる。電気が消えれば、蝋燭をつけて本を読むこともできないわけではありません。

 実は日本の経済社会、あるいは国民一人ひとりの生活が都市化された地域では、電力無しでは生活ができないということは、昨年の東京電力の計画停電騒ぎで極めて明らかです。特に窓が開かない高層ビルは、建築学上は「窓ではなく壁である」と、法律学上では「窓ではなくガラスの壁である」と定義されるそうです。そういう構造物にしてしまうと、エアコンが無くては生活ができません。エレベーターも水も全て電気で動いている。ここにオフィスと居住空間があるということは大変悩ましい構造を作ってしまったといえます。

 しかし、その悩ましい構造を作ってしまったというところから、物事を出発しなければなりません。そして昨年の経験からいいますと、日本はいわゆる電力網がスマートグリッドになっておりませんので、どこかの大病院があるとすれば、その病院に対する電力供給を維持して、その周辺のご家庭や工場にお分けをしながら計画停電をしていくという仕分けにできるような電力供給になっていないことがわかりました。

 あるいは、街中では電電公社の、昔でいうと電報電話局が中継基地になっているようですが、何百カ所も東京にはあります。これが一瞬にして止まると、そこから先の電信・電話回線が切れます。そうしますとコンピューターを使っているところは切れてデーターが飛ぶ可能性もあるという指摘をされました。それを聞いて、「それは大変だ。どうしたらいいんだ」と聞きますと、「自家発電がありますから軽油が供給されれば大丈夫です」と仰っていました。ビルの地下に代替用にタンクがあって、自家発電で瞬時に止まらないようにしていらっしゃるようです。「仙谷さん、ここは一週間に二回ほど軽油を継続的に供給してくれないと困る」と言ってきましたので、震災直後の当時、三月の暮れや四月は、いかにガソリンと軽油を東北に運ぶかということで皆さんに必死になってもらっていたので、「それはできるのかな…」という話をしておりました。

 今、実は情報通信の世界も、データーセンター、研究所、工場も電気によって温度管理が必要だったり、電気によってデーターが管理されなければならない。離れたところにバックアップデーターをお持ちのデーターセンターもあるようですが、金融をはじめ、全てがそういう組み合わせの中で経済社会の活動があるので、ただ単に電動が止まるという話ではなくて、高度化した日本社会の中で質の高い安定的な電力が供給されなければならない。あるいは、供給されることが当たり前だという社会を良くも悪しくも作ってしまったという現実の中で、電力、あるいは電力供給というものをどう考えるのかという命題に我々はぶつかっています。

 そこで、東京電力のひきおこした事故の派生する問題は、実は今、再稼働の問題がこの一週間の最大の課題です。ずっと存在するのは損害賠償の問題です。実は今朝もこの問題に整理をしなければならないということでお付き合いをして参ったところです。現在まで、約7000億の仮払い、一時払いも含めてお支払しているようです。

 東電も13,000人の臨時社員も含めた社員、正社員は3500人の動員態勢で直接請求に対応する。そして、政府の方は「原子力損害賠償紛争処理センター」を作って、ここで和解の仲介をしています。東電が顧問弁護士を頼んで動員して140人、政府も若い弁護士を中心に50人の専門家を頼んで集めていますが、自主避難された方が150万人、60万世帯という数です。

 また、計画的避難区域、あるいは警戒区域等の10キロ、20キロ、30キロ区域は約10万世帯です。この膨大な損害賠償をやりきらなければならないということで、これは大変な仕事です。そして、皆様ご承知のように、東京電力は三月末の決算で、どうもこのままでは財務的に維持できない。損害賠償を払い、尚且つ国民にこれ以上の不安感を与えない、そして安定的な事故収束のオペレーションをやらなければならない、その費用をどこからか捻出してこなければならないという過程に入っていますので、政府が後ろ盾になって東京電力の経営・財務を持ち直した上で、なお、しかし国民の東電に対する反発や批判を受け止めながら東電にも改革をしてもらわなければならないという課題に直面をしています。

 福島事故から派生した問題は、3つも4つも重要課題であり、一つひとつが大きな課題です。その課題の一つが、一つの内閣で背負いきれるかどうか容易ならざる問題に、今、野田内閣は「社会保障と税の一体改革」共々、真正面から取り組んでいます。これは野田さんの凄い所ですが、揺るぎなく腹を固めて取り組んでいます。

 話は変わりますが、正月以降の状況、つまり「アラブの春」以降の状況をみて、私は「やはり来たか」と思いました。同時に、21世紀型社会は一体全体、一つの国と他の国がどのように協調し、連携しながら世界のガバナンスを作っていくのか。とりわけ先進国が作るガバナンスというのは何なのか。先進地域といわれたヨーロッパで財政危機が発生し、金融危機にまでなった。今日の毎日新聞の浜矩子さんのコラムを読んでおりますと、今や「財政恐慌である」と言っておりました。ヨーロッパは一時しのぎで現在のような中央銀行を中心に金融緩和を行い、金融機関にジャブジャブにお金を貸すことで財政恐慌を防いでいますが、まだまだ予断を許さない状況です。

 なぜこのような金融危機が起こるのか。あるいは「出口戦略」と言われながらも、結局出口が見えてこないのは何故なのか。先進国といわれるEUの地域を見てみますと、若い人の失業率がやたらと高い。若い人の失業率がスペイン、ギリシャで40%を超えています。要するに2人に1人が働き口がないという状況。あるいは、日本を除いた先進国で若者は大体、失業率が20%を超える状況になっております。

 これは、一体全体何なのか。どこに入口と出口があるのかを考えざるを得ない大変な事態だと思います。今日も日本経済新聞の朝刊に、クリントン政権時代のロバート・ライシュがインタビューに答えていました。ロバート・ライシュが昨年9月のニューヨークタイムズで、1970年から1990年までのアメリカのグレートクロスペリティ、その後の20年、今のことをグレートディブレッション。つまり、「大いなる繁栄」と「大いなる後退」という記事を書いていました。

 要するに今日の記事にも書いてありましたが、生産性が上がった分、労働賃金が上がってない、そのことで格差が広がった。人口の1%に占める単年度の収入が23%になっている。これは1929年の状況と同じであり、世界大恐慌と同じ状況をアメリカは生み出しているということを書いてありました。これがその後のアメリカのウォールストリートのデモにつながり、「1%の奴らが良い目をして99%は大変苦しい」という職業に対する飢餓感といいましょうか、働けないことへの飢餓感、そしてもちろん現実の生活の上でも収入がないことについての怒りが噴出しています。

 先進国はその傾向にありますし、中進国でも中国のような急速に発展した国も同様の傾向にあります。つまり「若者の雇用喪失」と「成長」の問題が改めて問われており、私も「成長を促す金融という機能が果たしてどのような状態が正常なのか」ということを常々考えていますが、社会の怒りが一つの意見に収斂されてくる、あるいは大勢を占めるかのように見えてくる一つの作用がインターネット、FacebookやTwitterなどSNSの道具が使われることで、昔のように国会を取り巻く10万人のデモは起こりませんが、日本はどうもインターネットによって世論の動向や国民の意識が動かされる様相になってきたと見ておりましたが、そのことは、先進国の共通の課題だと思います。

 そして、もう一つの先進国における共通課題は、政治が国民の意識の多様化を受けて、間接民主主義、議会でこれを収れんさせて決めていくという機能が、アメリカでも、ヨーロッパでも失われつつあります。つまり、間接民主主義の有用性が少々機能不全に陥っている状況が見られます。

 最近、新聞各紙とも書いておりますのが、イタリアのモンティ内閣が、むしろ選挙に左右されない、政治家ではない総理大臣を選んで、政治家ではないがためにやるべきことをやっているというコンセプトや論調で論じています。日本でいえば、戦前の「大命降下」のもとで、選挙結果がどうであろうと、議会の勢力結果がどうなろうと、大命降下で「次は西園寺君がやれ」とか、「桂君がやれ」とか、「山形君、君がやれ」というような形で首相が選ばれており、形としては同じです。つまり、賢人政治、欽定政治が行われるのであれば、別に投票で権力基盤・政治権力が作られなくてもそのことの方がいいんだという議論です。

 ところが結果として一時期はそうかもしれませんが、これは民主主義の政治権力の作り方についての約束を全く果たせないという意味になります。民主主義は、国民が自立的に選挙をして、そこで選ばれた政治権力が物事を決めて実行していくことがなければ、元の専制・賢人政治に戻っていかざるを得ない。しかし、それでは物事が出発点に戻るということになってはマズイんだろうと思います。

 日本もそういう傾向が大衆的には存在するようです。従って、ある意味で「社会保障と税の一体改革」についても、中身の議論よりも、解散をしてあらためて、国会の勢力比、あるいは政治権力を変えない限り議論が始まらないというのが、一つの反論であり、主張になっています。

 実は日本の国会はその問題だけではありません。衆議院の政治勢力の割合を、解散によって変え、新しい政治権力がその時点では民意に基づいて政策を作り実行できるというヤワな状況ではない。

 それは、この間、議論になっている「強すぎる参議院」という立派な上院がありますので、参議院問題が解決されない限り、衆議院の選挙を何回やっても同じだということになります。

 現に今の参議院の勢力図を見ますと、社民党と共産党の存在がありますので、民主党がこのまま衆議院で野党になっても、来年度の参議院選挙までは必ずいつかの時点で選挙があって衆議院の勢力が大々的に変わっても、参議院は「ねじれ状況」になります。

 その時に、野党に回った側が、政策ごとに是々非々主義で、ある種、修正を経ながら議論ができる野党が存在すればいいわけですが、そうならない場合、野党が野党のポジションとして反対という結論に収まるのが党内的に辻褄が合いやすいという雰囲気になってきますと、政策の内容いかんにかかわらず、あるいは政策が現時点、緊急に日本にとって必要かどうかということは関係なしに、ペンディングにして、まずは解散総選挙だ、あるいは、まずはこの問題をクリアしなければ次にはいけないということになってくると、甚だ日本の国会にとっては物事が決まらないことになりますから、ますます危機が収まらなくなる。あるいは、危機の進行に目をつむり、不均衡拡大に目をつむって、ゆとりのある政争を繰り広げると、ますます膿は溜まる状況になると思います。この状況を非常に心配しながら、何とかこれを切り拓いていこうということを野田内閣は正面から訴えていこうと頑張っています。

 この間、震災以降の危機管理諸課題について感じていることは、我々もそれほどガバナンスに長けていた訳でもなく、ガバナンスに弱かったなと反省をする場合もありますが、先般の郵政民営化問題で特徴的に表れているように、この10〜15年「官から民へ」、「中央から地方へ」というふうに施策を取って参ったわけで、その標榜は自民党も、民主党もどちらがその政策を徹底できるかということで争ってきた側面もありました。しかし、一旦大震災が起こると、「国は何をやっているんだ」、「国が全責任を持ってやるべきだ」という議論がわき起こります。

 現に震災対応として、国民の皆様の高評価を頂き、効果的・効率的に行ったのは、国の自衛隊であり、海上保安庁であり、警察であり、さらに国の地方整備局、国交省の出先機関、あるいは農林省の出先機関でした。これはハード中心ですが、その復旧復興にかけては、国が中央の権力でカネと、蓄積された知恵とノウハウを持って全国に動員かけてやれば一番効率が良かった。

 こんな言い方をすると都道府県の方が反発するかもしれませんが、ガレキ処理や仮設住宅を含め、これは基本的に地方自治体の事務です。ガレキ処理は市町村の事務です。こういう非常事態には、これを取っ払って国がやるべきという議論は正しいのですが、日本は「法治国家」ですので、そういう法律を改めて作らなければならない。

 法律を作っても実働部隊を国の機関が持っているかどうかによって決まります。日頃、そういう事務に携わって訓練をされているかどうかにもよりますので、ある種の大きな災害に備えて、平常時はそんなに仕事は無いという機構や集団をどう作っておくかはこれからの課題です。

 いずれにしても、国家が主権的な意思の下に領収した力を発揮しなければならないということが、往々にしてか、偶々にしてか、国家の体裁をとる以上は存在することがはっきりしました。

 ところが、問題はここから先です。そうなってくると、国民の心理・意識の問題として、過剰に国家、中央政府に依存する気風が大きくなってきているのではないか。この問題が出ていると私は思います。

 本来は、都合のいいところだけの「地方分権・地域主権」はありえない。今、最大の地域主権の課題は、国の出先機関を都道府県連合に移譲することが進められようとする中、災害を経た今となっては、市町村の方が「それは困る。県に任されたらとんでもないことになる」と言わんばかりの主張が、基礎自治体から強く唱えられています。この問題は、日本の統治機構の問題として、またガバナンスの問題として大変悩ましい話です。

 東日本大震災や東電がもたらした問題は、日本の成功体験としての1990年までの経験、失われた20年と言われた2011年までの経験を今、どのように総括しなければならないのか。明らかに、当時と政治の中で条件が違うのは「冷戦構造」がすでに壊れている。1989年の参議院選挙から冷戦構造はすでに無くなっています。

 しかし、経済的にはバブル崩壊後、国が民間企業と家計部門の借金を肩代わりする。国の借金が1000兆円になるまでの財政赤字を作り上げる中で、銀行はじめ企業サイドの借金を全部国に付け替える。国民は貯め込んだ貯蓄を減らすことなく、ここまでやってきたというのがマクロの金融財政論としてはいえることだと思います。

 つまり、改めて大手術をしなくても何とかここまでやることができた。政治の方は、1993年に細川内閣ができて大改革の方向に進みかけましたが、「自社さ政権」、あるいは1999年からの「自自公政権」ということで、綻びを繕い繕い持たせてきましたが、2009年の「政権交代」でそのこともできなくなった。

 私はこの20年間、ちょうど1990年当選組ですので、20年間政治の場に身を置かせて頂く中で、時代が変わった時、特に先進国が置かれた状況というのは、先ほど金融・財政・雇用の話をしましたが、それほど高い成長を望めるわけではない。

 つまり、成長の余力で、配分をメインストリーム以外に配分して、何とか政治的に処理することは、もう殆どできなくなってきつつあります。そうすると、国民の皆様に少々の負担をして頂き、当たり前だと思っていた電力供給体制をより万全なものにするとか、あるいは「反原発・脱原発」の旗の下に、全てをクリーンエネルギーに変えるんだという考え方は間違っていないと思いますが、どのくらいの単位で、どのくらいの投資を、あるいは国民の貯蓄を使いながら、どう実現していくのかという観点がなければ、自分たちが国民の金融資産を、あるいは企業も、今企業がお持ちの内部留保を抱えたまま、「誰かがやってくれるだろう」という話では、とても物事は前に進みません。

 私は20年や30年という期間の中では、日本の原子力発電をクリーンエネルギーに置き換えることは、いろんな組み合わせで、あるいは日本が現在到達した技術が、よりイノベーションがかかればできない話ではないと思います。ここは目的意識と国民必死のリスクをとる行為がなければ、それは容易なことではないと思います。

 その中で政治は、政党間で中味に少々の違いはあっても、民主党と自民党、あるいは公明党で「財政と社会保障」、あるいは「先進国としての日本の雇用をどう作るか」、その時の「教育と職業訓練の在り方」というふうな問題、「医療・年金におけるどのようなサプライサイドを強化するか」ということで、雇用を生み出し、国民の健康やヘルスケアをどう強くしていくかについて、私はそんなに異論がないと思っています。

 自民党の外に出てくる文章で民主党と違うところは、例えば「家庭をどう考えるのか」、「子育てをどうするのか」という点です。民主党は「家庭・子育て・社会」に足場を置いているのですが、女性の12歳以上の子宮頸がんワクチンを受けるという施策について、公明党さんは熱心なのですが、自民党さんは「それはやってはいかん」と仰り、女性と家庭に対する感覚は自民党さんと我々の違うところはあると思います。

 安全保障問題も、ここまで煮詰まってくると、国家間戦争は、安穏と「それは無い」、ということではなくて、軍事の問題はパワーゲームとしてどこまで国民が安心して暮らしていけるか、という備えの問題であったり、地域紛争に先進国がどう共同で対処するかという観点の問題であって、それが防災、災害防止等々にどう使うのかということが重視されなければならない。つまり、従前より人間の安全保障に少々比重が移るような観点からの安全保障戦略が必要です。

 そして、今日本が立ち至っている問題、とりわけ心理的問題は、一国的に考えることで何とか生活水準が守れるのではないかという考えが、税と社会保障、あるいは医療、貿易、モノづくり、そして経済についても、この数年「中央依存」、あるいは「中央政権頼り」、「国頼み」がより濃くなっている。

 それと同じように、一国的に守りきれるのではないかという観点で物事を考えてみましても、民主党と自民党との間にそれ程の差はありません。差がある方もいらっしゃるかもしれませんが、今の両党の執行部を構成する主流派の方とお話ししても、そんなに差があるわけではありません。先ほど申し上げた「決めることのできる政治」を行うためにも、民主党と自民党が連携する、あるいは連立をするところまでいかないと、日本のある種歪な二院制を改革する、あるいは二院制を前提にしながらも国会の中で、新しい合意を形成するための真剣な議論、そして事実と論理に基づいた合意形成ができる政治を作る。そのために何をしなければならないかということに両党に違いはないと思っています。しかし、これがなかなか現実の政治過程の中では「問責だ」とか何だかんだ、でうまくいきません。

 私は、今は与党ですが、いつかは野党になるかもわかりませんし、それまで生きているかわかりません。いずれにしても、議会政治は「野党のありよう」が非常に問題だと思っています。しかし、「野党のありよう」が、与党になることを前提にして敬意を持って扱わないと、野党の振る舞いが先進国の民主主義を機能させることにはならないと思っています。

 特に日本の場合は、私ども、野党の時代によくやってましたので反省をしなければなりませんが、日本の総理大臣は、国会に出て来て答弁することが仕事のようになってきます。エグゼブティブ・コアとしての執政権力として情報を集め、判断をして、それを指示して行政庁にやらせることが容易ならざる時間的な状況になっていることが今の日本の内閣の現状です。

 これほど、国会に呼び出される総理大臣や大臣はありません。かたや、国際会議は大変な数で、総理大臣や大臣が出席を要請され、出席しなければ恰好がつかない会議が増えています。よく政府専用機が飛んでいたかと思いますが、政府専用機で国際会議に行っても、皆さんフラフラになりながら仕事をして、飛行機で帰ってきたその日の朝から衆参両院の何とか委員会に呼び出されて、飛行機の中で答弁書を読んで国会に臨むという生活が続きます。

 そうすると、じっくり情報を整理・分析して、内閣官房のスタッフと相談をして方針を出すことはなかなかできません。あるいは、国際会議に出席する前に、しっかり準備をして日本の主張をしてくる余裕がスーパーマンであってもなかなかできないと思われるような状況です。

 これが国会と内閣の関係になっています。ここは是非とも野党の皆さんの御協力で直していかねばならない。1993年や94年の段階で、小沢一郎先生が中心になって「副大臣・政務官制度」を作り、そして「党首討論」の時間をとって、総理大臣や大臣が国会に拘束される時間を少なくしなければ仕事にならない、政治にならないということで成された改革が、ここにきて参議院の野党多数という状況の中で、元の木阿弥に戻っているのは大変残念です。

 これは毎日フォーラムの場ですので、これはメディアの方々にも警鐘を鳴らしてほしいと思います。時間が来たようですのでこの辺で終わらせて頂きます。

 ありがとうございました。

【質疑応答】

○松田喬和氏(毎日新聞編集委員)

 二大政党制が暗礁に乗り上げる中、地域政党が台頭し、この名古屋でも河村市長や大村知事が大都市圏での三党を束ねた連立なり、新たな政党協力をしたいという動きが活発化しています。どこまでいくのか分かりませんが、仙谷さんはこの状況が何故出てきたのか。その見通しをお聞かせください。

 二つ目は、統治機構の問題で、直接選ぶということで橋本市長の「大阪維新の会」はじめ、首相公選制が浮上していますが、その可能性と問題点、そして首相公選制は、当然憲法改正をするわけですから、それが本当にテーマになるのかどうかについて、どうお考えになるのかの二つについてお聞かせ願えたらと思います。

○仙谷由人:

 何故、この種の動きが出てきたのか。これは私も1994年落選中の時、ローカル・パーティの問題とナショナル・パーティの問題について考えたり、自分でも「四国市民ネットワーク」を作って、四国固有の政策実現の政党があってもいいんではないかという動きもしました。問題は、先ほど申し上げた関係でいいますと、政治の持つ専門性と現代メディア・ポリティクスといわれる状況の政党、政治家の説明責任の問題と深くかかわっていると思います。

 今は「情報過多社会」ですから、いくらオーソドックスな手法で説明をしていると思っていても、これが情報側の手法が多すぎるために、国民の皆様に伝わっていないことが起こります。マス・メディアが取り上げるのは、全般的な情報を取り上げるわけではない。

 特に、大見出しを打つと記事の内容よりも、記事の見出しにイメージが移っています。私も「仙谷さん、社会保障について何も言っていないではないか」とよく言われます。社会保障について、分厚い分量の政策やイメージから、これから展開する施策の資料は我々も申し上げているし、記者会見でも担当大臣も申し上げているし、さらには厚生労働省のHPをご覧頂いたら全部載っていると申し上げても、「面倒だからそんなの見れるか」と言われて終わってします。そうなりますと、勝手に一部の政治家だけがやっているように思い込みがちで、「民意を反映し、我々の置かれた惨状なのか、窮状なのかを解決するのは我々自身でなければだめだ」というごもっともな声や主張が、情報過多時代、過剰時代の傾向になってくるのではないかと思います。

 もちろん、それを支える各構造としては、どうしても低成長の下で、賃金が下方平準化、つまり安い賃金の水準に引きずられる。現に1997年から約120万の所得の中央値、あるいは可処分所得が減っていますから、この鬱屈感も相当ある。絶えずこの動きは出てくると思います。

 また、政治もプロフェッショナルな政治家かどうかもなかなか難しい話です。一応は、プロフェッショナルな政治家に、職業としての政治家に任せる。「ここから先は任せる」というのが代議制民主主義の制度ですが、「任せられる奴はどこにいるんだ」という声は、半分正しいのかもわかりませんが、しかし、投票して任せるという制度になっています。しかし、後は任せられる人は、ほっといても自然に出てくるものではないということを改めて国民の皆様方に自覚的にお考え頂かなくてはいけないのではないかというのが、厚顔不遜と言われるかもしれませんが、私の総括です。

 つまり、経営人材というのは、会社の方々も自然発生的にその会社で「何年次入社の誰々君」というのが将来、会社の屋台骨を支え、背負い、取締役になったり、社長になってくれたりして、会社が順調に発展するという自然調和的な話というのはほとんどないというのは、ご理解頂いているのではないかと思います。経営人材は意識的に作っていくことがないと、多分その会社はうまくいかないと私も思い至りました。とするならば、政治人材も、どこかで政治人材を育てる仕組みなり、コストをかけてでも育てることがないと、代議制民主主義を担う政党もできなければ、政治家もできないと思います。

 ここを選挙の度ごとに育てる意識よりも、「今度はこっちがよさそうだから入れてみるか」という程度の話で政治家の選択や、政党の選択が行われることに終始すると、これは大変危ういことになると思います。そういう観点からいうと、政党政治や議会制民主主義、とりわけ議院内閣制をとろうとすれば、政治人材を意識的に養成するということに、国民と社会がもう少しならないと、これは容易ならざる事態になります。

 当然、コストはかかります。アメリカやヨーロッパでは、オックスブリッジシステムやENAシステム(国立行政学院)が全て良いとは思いません。しかし、日本で政治家たらんとする方々の基礎知識や基礎教養が、ヨーロッパやアメリカで、これは地域の政治家を含め、置かれている基礎的な素養や知識や経験とは、まだまだ追いついていないのではないかと思います。その我々よりも先を行っているはずのヨーロッパやアメリカでも、現在の政治の混迷と経済、あるいは社会の大変な混乱が起こるわけですので、民主主義は「手間」と「時間」と「コスト」をかけないとできないということで、日本の場合も政党というものを毛嫌いしないで意識的に育てていくことが大変重要だなということを厚顔不遜にも思っています。

 私も年齢的に年をとっていますので、育てる側に回ろうかなと思い、ただ「On the job training(実務経験を積む事により、業務上必要とされる知識や技術を身につけるトレーニング方法)」でなければならないのかと思ったり、いろいろ考えているのが率直な感想です。

以上