世界平和文化交流協会における講演

2008年5月23日 仙谷由人

組織のガバナンスと人材養成がかぎ
日本政治の行方と民主党の課題

今 何が問題か

 日本の現在の混迷は87年から始まっているのではないでしょうか。日本は85年のプラザ合意に始まった事態に的確にしっかりと対応できなかったと考えています。87年に前川レポートが出されたのですが、ここで「内需拡大」が強調されました。この「内需拡大」自体は正しかったと思いますが、この「内需」をどうとらえるか、サービス化、情報化、それを支える人材養成というところに考えが及ばなかった、つまり産業構造と就労構造が変わっていかざるを得ないということに考えが及ばなかった。当時の力関係で、政治、行政が、資源配分の転換に大胆にふみこめなかった。それが最大の問題だったと後講釈だとは思いますが、そう感じます。

 いま医療危機が叫ばれています。医療の分野はバイオ、遺伝子工学も含めて、まことに現時点で日本はお寒い状況です。いかなる意味で医療が危機なのか。それは主として、人材の養成、配置に関わる問題です。医療人材は10年単位で考えなければならないことであって、現時点でこんなに問題が噴出し、深刻化することは、10年前から手をつけなければならなかったということです。ですから、なかなか修復不可能な話です。憲法でいう「健康で文化的な最低限度の生活」を営む上で医療の果たす役割を産業論的にもきちんと位置づけてこなかったことが、今の混迷と混乱をもたらしているのです。

 金融についても似たような問題があります。政府は87年の金融危機から10年たっても、グローバリゼーションのなかで金融の持つ意味について、ほとんどノーテンキな対応を続けていました。

 私は92年夏に衆議院大蔵委員会の理事でした。そのとき、大蔵省が保有株式の売買禁止の通達を出しました。当時の宮沢大蔵大臣が軽井沢の生産性本部のセミナーで、銀行が過小資本になりつつあり、本当は公的資金の注入をしなければうまくいかないのだという講演をしましたが、しかし東京へ帰ったとたん袋叩きになり、大蔵省に反対され、沈黙することになってしまい、結局バブル崩壊の事態を5,6年放置することになったのでした。また小沢さんが新進党の党首をしていたときですが、住専(住宅金融専門会社)へのたった6850億円の注入もいびつな形でした。この問題がいまだに尾をひいていて変なトラウマになって残っているのではないでしょうか。可処分所得にしても成長率にしても、土地価格にしても、98年がターニングポイントで低成長路線から迷走路線にはいっていきました。ここをきっかけに格差が大きくついて、日本の社会構造が大きく変わってきました。所得分布でいうと、かっっては「2:6:2」の構成だったものが今では「1:5:4」か「1:4:5」になってきつつあると感じます。そして、格差が貧困に転化し、その貧困が世代的にも固定化されてきた。そんな感じがしてきます。収入が十分でない家庭の児童生徒を対象に学用品や給食費を支給する制度がありますが、この「就学援助」を受給する児童生徒が増えたこと(00年から04年までの4年間に4割ふえ、受給率が4割を超える自治体があったり、東京大阪では4人に1人が受給している現状がある)や、養護施設などを回ると地方の中小都市での母子家庭の増え方がたいへんな数になっていて、おじいさんおばあさんが健在で、ある程度の資産的な余裕がある家庭はなんとかもっていますが、他はたいへんな生活実態です。そして、経済生活だけでなく、そのことが学力にまでつながっているのです。もっとひどいのは、「愛着障害」といって、育児環境の質が悪かったことにより、反社会的問題行動を繰り返したり、向上心がまったく感じられない子が増えています。これも、97年以降の政策が本質的に、問題解決のための政策展開がなく、小渕総理の時代は「癒し」のばら撒き政策でした。今の福田総理では財政的な理由で同じことはできませんが、一貫して「内需拡大」がコンクリートを大量に消費することで表現されるハードな公共事業に向かったのが決定的な失敗だったと私は見ています。

主権国家のあり方こそ議論を

 それとあわせて、政治面、つまり上部構造のところでは、いわゆる55年体制と称される冷戦思考がかなり色濃く残っていました。憲法改正論議がずっと続いたのですが、それが9条改正論議でしかなかったのがはなはだ残念なことです、いまの日本の宿題をはたせぬまま、大きな問題を抱えるまでに至ってしまった。安全保障問題は真剣に議論すべきテーマですが、国家間戦争や、体制間の物理的紛争は、89,90年のベルリン壁崩壊以降、基本的には回避できるようになりました。国家対国家の戦争はそれほど神経質になる必要がないという時代を迎えているのです。ところが、憲法論議となると、マスコミがいけないのですが、必ず右か左か、自衛隊違憲か合憲か、そして法文上の文言を改正するのがいいか悪いか、そういう議論に終始してしまいます。もう少し違う観点からの議論がされてしかるべきだったのですが。

 切り口を変えて、コーポレートガバナンスということで考えた場合、このことの意識があるのは、民間、上場会社にしかないようです。このことを真剣に考えて経営していこうという問題意識が少ない。一番ないのが政党でしょう。次に霞ヶ関にもありません。自治体もほとんどなかったのですが、ここは倒産することの危機感を感じ取った首長はいちはやくガバナンスに手をつけて解決しようとしています。三重県の北川正恭氏はじめ改革派の知事の仕事がそうです。

 そのことを国家的に考えると、主権国家がグローバリゼーションとそれにともなう一人一人の国民のアトム化(佐々木毅教授に言わせればバッファーがなくなっている状態)が進み、業界、労働組合、そして企業自身も、企業福祉の終焉と言われるように、昔のように丸抱えで社員、構成員を一生面倒見ることはできなくなりました。個人の側も優秀な人ほど「うっとうしいのはいやだ、自由がほしい」という傾向です。うるわしい古きよき時代の企業共同体も成立しにくくなっています。こういう時代の政府が果たすべき役割をきちんと措定しなければならなかったのです。ところが、それが、霞ヶ関官僚の縄張り争いで、中途半端なものになってしまう。今地方分権推進委員会が第一次勧告を出すところまできましたが、行きつ戻りつです。福田総理、増田総務大臣のイニシアチブでなぜできないのか。霞ヶ関の官僚は優秀だけれど、彼らが慣れ親しんだ官制=慣性で、個別的には正しく見える判断が全体として見ると誤ってしまう。

分権改革は喫緊の課題

 権限分配問題を考えると、霞ヶ関の事業官庁がやっていることは、自治体に対して事業を許可し、補助金の交付を決定し、補助金と権限を二本だてで行使していますが、事業計画の作成事前協議からはじまって、事業計画承認申請、計画承認および内示、補助金の交付申請、補助金の交付決定、事業実施状況報告・概算払い手続き、補助金の実績報告、補助金の額の確定、事業完了報告・計画達成状況報告に至るまで、各省庁と、省庁の出先、県庁、地元の市町村と書類が何往復も行き来する。手元に何年か前の農水事業の書類の流れの表をお示ししておきましたが、事業主体、市町村、農林事務所、県本庁、農政局の間で6往復しています。これはあくまで基本パターンです。当然人手も大変だし、徹夜してとりくむことも行われているという実態があります。ここに分権問題の本質が現れているのです。

 グローバリゼーションのもとで、国家を超えるところで処理しなければいけないことが山ほどあるわけです。したがって、地域の細かなことに中央政府がいちいちかまっていないで権限を大胆に地方に移譲・分与すべきです。現状ではたいへんな無駄があります。今度の道路特定財源の問題をみると、何よりも地方の首長と地方議会の根性が腐っているのではないかと感じます。国土交通省の道路局が指令して、この道路の利権を守るために東京で大会をひらき、議員会館に押し寄せてくる。地方議員と首長が、さらには国会議員までも、議員会館をまわってくる。これで使われた交通費と宿泊費は大変大きいものがあります。この方々が来たとき私も話をしてみました。道路がそんなに緊急性があるでしょうか。救急医療のために道路が必要だとまでおっしゃるから、道路が通っても医者がいなかったらどうするのか、その方が切実性、緊急性があるのではないかと問いかけると、道路だけは必ず必要だと言います。しかし、私が救われたと思ったのは、国民は時代を認識しているということです。道路族の人たちは、圧倒的に道路の緊急性が先だと主張しますが、世論調査は何回やっても逆の結果が出ます。道路特定財源はおかしい。暫定税率の考え方もおかしい。その予算を一般の施策に回した方がいい。こうした国民の反応を見ると、国民はかなりわかっていて、政治に携わる人の方がわかっていないということです。時代認識が遅れているのではないかと改めて感じさせられました。

 憲法については、地方分権とグローバリゼーションにどう対応するかを憲法という国の形として書き表したらどうなるか議論をほとんどしないでここまできてしまいました。これが日本のいびつなところです。自民党は愛国心を強調し、9条の改変を一生懸命書いていますが、統治機構をどう変えていくか、変えねばならないかという点については、論じていません。分権、霞ヶ関と国会の関係、国会内部=衆参の関係)などを統治機構の改革、改変という観点(それは憲法改正なくしてはありえないということにおちつくはずですが)の議論がなされてこなかったのです。メディアも含めてこの議論が弱い。

「熟議の民主主義」の提唱

 参議院で野党が過半数をとり、しかも民主党が第一党を担ったということは戦後政治史上初めてのことです。議長と議院運営委員会の委員長に民主党議員がなった今、審議を政府与党のいいなりにはさせないという方法は審議拒否以外にもいくらでもあります。ところが、自民党執行部、官房長官以下が体感としてわかっていない。現時点がどういう新たな事態なのかの感覚が鈍すぎるのです。福田総理はいち早く気がつきました。そこでネジレ事態を解消するには「大連立」という話になったのでしょう。今から見れば大連立自体は小沢さんの方から仕掛けた形跡が強い。福田さんがそれにとびのったのでしょうが、うまくいきませんでした。仮にうまくいったとしても、議会本来のあり方からしてよくない。二世三世世襲政治がそうさせているのか、与党の霞ヶ関へのチェック機能が甘い。情報収集と情報分析が甘い分だけ霞ヶ関の案についてのチェックが甘い。それと、昔と違って自民党は国対副委員長とか副幹事長の運動量が少ない。昔の国対政治のように「飲ませ食わせ」という伝統的手法を使うのも大問題だが、しかし人間的な魅力や交際術で野党にくいいって情報をとってくるとか「たらし込む」という芸が出来る人がいなくなっている。

 野党が参議院第一党をとっているということの意味を自民党幹事長も官房長官もわかっていないと先ほど指摘しました。そのことがミクロ的な意味で国会運営がうまくいかない原因です。もう一つは民主党側もそうですが、本来もう時代が変わったと与野党で認識した上で、別の国会運営、合意形成の方式を考え直さなければいけないのにその基本合意ができない。大連立がだめなら徹底抗戦だといって、理窟があろうがなかろうが、野党は反対するのだ、というやり方です。道路特定財源についても来年から一般財源にするということなら、今年からしろという説と来年からという説を話し合って合理的な結論をだせばよいのではないかと普通の方なら思うでしょう。日銀人事のときも、国際金融の世界で活躍してきた「渡辺副総裁」は実力があってよいのではないかと党内で議論しました。ある著名なジャーナリストによれば、「渡辺副総裁にしていれば民主党は満点だった。」という方がいらっしゃった。そういうときに、「論理無き抵抗」=へりくつで政局的に動くのは本来はやめた方がいい。こういうやり方をやめなければますます日本政治を支えている国民の意識が変わらない。結局のところ政治とは何なのか、にさかのぼると思いますが、ますます泥沼に入っていくのではないか。奇しくも駿河台大学長の成田憲彦氏(細川内閣時の総理秘書官)が月刊誌「論座」6月号に「自民党型立法システムの崩壊−世界標準の議会の仕組みを導入しよう」と題して書いておられる。ジェラルド・カ−チスさんも最近は「政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年」という本を書いて、「説得の政治」の議論を展開されている。そういう方々とも、ほとんど共通する筋の話です。

公開と説明を基本とする国会

 憲法調査会でEUの視察をした際の調査の経験を紹介したいと思います。なぜEU憲法条約が議会で合意されてきたのか。法律専門家から見ても理屈っぽい条約だが、これを右から左までそしてグリーンのグループまで入って練り上げていくというプロセスで議会が仕上げました。これは大事なことです。日本のような右か左か強行採決だ、やれ三分の二で再議決だとプロレスのようにわかりいいがこれでは困ります。ジェラルド・カーチスさんが言っている「説得」、私は「公開と説明」だと言っています。そこを国民の前に示していかないと、国民が合意、納得して裁判所や内閣の決定を認めその権威に従っていくことにはなりません。その前提は情報公開、思い切って開き直った公開をするしかない。そこが自民で育った人はどうしてもアンダーテーブルで処理にしたがる。霞ヶ関も優秀ではあるが、組織としては情報公開が嫌いです。隠し、抱え込むくせから抜け出せていません。

組織のガバナンスが肝要

 きょうの新聞で大阪府が12パーセント賃金カットと報道されていた。自治体も国も、労組がどうのこうのなどと被害者みたいなことをいう理事者がいるが、民間の会社で組合のせいだと泣き言をいう人はいない。公務員の世界はそれが通用しています。ガバナンスから言えば労務担当重役がいない。財務省に誰が労務・人事の責任者かと聞いても 労務担当重役がいない。

 どこの役所でも誰が労務担当重役かと聞いて答えられない。官僚のトップと大臣、副大臣との関係も説明できない。最後の判断をだれがするか不明確。このかんの現象を見ていて例えば公務員の給与を下げることはそうむつかしくない。しかしそれは、トップが決断すればという条件つきだ。知事が職員の給与を下げることができたところで共通しているのは、公開の団体交渉をテレビ入りでやること。二晩徹夜で話し合えば、だいたい理事者提案どおり決まっていく。タックスペイヤーに現状、実情を見せて説得的に話すことによって、原資を出す住民が、職員はそんなに高くとっていたのか、そんな特別手当があったのかと気づいてしまうと決着がついてしまう。それは組合がどんなに強くてももたない。報道された瞬間に、もうもたなくなります。

 そのことに体を張って対処できる理事者がいるかどうかが公務員問題の要諦であるけれど、どうも国家公務員法の改正を見てもそれができない。

 他にも、いま行ったり来たりしている問題で、独占禁止法の改正、公正取引委員会の問題があります。役割設定と責任主体、機能・使命を設定すれば、切り離すべきは切り離し、検察庁と裁判所と一緒にやるような話は機能分担するほうがよい。その方が公取の機能も十全に果たせるようになるのに。そのことがいったん自分の権限になると権限をはなせない。

消費者オンブズパーソンの提唱と人材養成

 いま消費者庁の問題が出てきました。ほっておくと、政府はこれもばかなことをしかねない。

 民主党は消費者オンブズパーソン制度を提唱しています。もしオンブズパーソン制度で、一般の有権者からの苦情を受け付け裁くところを作れば、本務をやる公務員が身軽になります。オンブズパーソンのところにくる苦情はいわゆるクレーマーも結構多く、北欧では70−80%は門前払いだといいます。こういう専門機関をつくり、そのことによって行政本務をやる公務員はすべてそこにおまかせし、いったん苦情受け付けを介して政策提案や執行の是正をする方が楽です。しかし、日本の行政庁はよそものにチェックされたり注文をつけられたくないという意識が強すぎます。これが縦割り構造の弊害です。消費者問題、食の安全、医薬品の問題を見ても、そのことを強く感じる。消費者庁設置に対しては、われわれは消費者オンブズパーソンをつくるべきだと主張し提唱します。

 そして本当のプロが育っていない。プロを養成することに関しては企業は企業なりにやってきましたが、企業と政府との間の行き来のルールがない。公の世界はプロフェッショナルの養成は漫然としかやってきませんでした。大学の自治の中でおまかせしてきたために実践的学問、技術と結びついた講座が育たなかったのです。肝炎被害や高齢者医療問題を見ていると、厚生労働省のなかで「医官」という職は十分機能していない。省庁の中で文官に対しては屈折的で、医療機関と医薬品メーカー、民間に対しては権威的だというビヘイビアが直らない。厚生労働省や社会保険庁をめぐる問題の最たるものは医療問題をはじめまともに統計をとらないというくせ、やり方に起因します。政策を考えようとしても数字にあらわれてこない。これはおそろしいことです。先ほどの権限分配の問題から考えても、市町村におしつけて後は無責任な関係がありながら、しかし一方で、補助金を出すので中央の言うことをきけと介入し細かな通達を出す。しかも結果のデータは一切収集しないという珍妙な仕事をしている。厚生労働省の政策はことごとく失敗、後追いに終始してきたのではないかと思います。

「知らなかった」ではすまされない

 98年当時大蔵省銀行局長が、不良債権がこんなに巨額だとは知らなかったと弁解しました。今官房長官や幹事長が、国土交通省や厚生労働省の不祥事やモラルハザードが報道されると、我々は知らなかったと平然と言います。それで官僚を呼びつけて怒鳴り上げるという行動パターンが常態化していますが、しかし、ガバナンスの観点からするとお粗末なことだ。知らねばならない人が「知らなかった」という無責任さ、例えば社保庁と政治(官邸)の関係を国民がだんだん見抜いてきたのではないかと感じます。民主党自身も意識的にキャリアの方々と共同作業がうまく出来るかどうか、そこをガバナンスができるかが実質的な問題です。

 三菱UFJ証券のチーフエコノミストの水野和夫さんの本の中に「まやかしの危機とまやかしの改革」という言葉があります。小泉さんがやった道路公団改革や郵政民営化も、まだ日本の危機が本格的にあらわれていると国民多数が認識していなかったと思います。中途半端な改革でした。5年たったら何がどのように良くなったのかわからない。

 データにもとづく調査があって、論理的に解明して、グローバルスタンダードのうちで欧米のいいところを摂取するようなガバナンスを改革する、統治機構を改革する余地は十二分にある。

人材養成 =「コンクリートより人に投資を」

 問題は制度改革のみならず制度を動かす「人」の問題であって、どうやってその人材を養成するかが最大の問題です。これはオンザジョブトレーニングでやらねばならないことも相当ありますが、しかし、研究開発を伴いながら新しいプロフェッショナルをつくるのは、政府が意識的、飛躍的に人材養成費用を公的予算としてつけないと、これからの時代は有意の効果を生まない。例えば科学技術庁の研究費にしても科研費にしても、予算枠はとったけれど、どこにつければ意味があるのかわかる人が責任者(いわゆる目利き)にいないのが問題です。一教室に三重四重の補助金がつけられているという話も多々きこえてくるが、日本はそういう目利き、マネージャーの養成を本気に考えねばなりません。本気で効果的な資源配分をできる人を意識的に作ろうとしないとえらいことになると思います。

 初期教育に対しても相当力を入れないとたいへんなことになります。格差論のときにも言ったのですが、5割の人々が世代的な労働力再生産プロセスからこぼれおちては、社会的安定性が欠けるどころではありません。できるだけ社会的中間層を豊かにする、そのためには保護ではなく、原点に立ち返って教育、人材養成に資源を重点配分しなければなりません。

 毎日新聞の岩見隆夫さんが「近聞遠見」で私についてコメントをしてくださり、そこで紹介してくれたのですが、私の大学時代の親友、「評伝北一輝」を書いた松本健一さんが、数年前に評伝で長岡藩の小林虎三郎のことを書いた「我に万古の心あり」という本があります。「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」 として、寄付された米を藩の学校建設にまわしたという話です。山本五十六もそこで育った。小泉さんは小林虎三郎の「米百俵の精神」を演説には使ったのですが、実はそのことを実行しなかった。公共事業のカネを人材養成に回さなかったのです。産業構造の転換に見合って資源配分を変えることができなかった。松本健一さんは2年半前、司馬遼太郎賞と毎日出版文化賞を受けました。若い時は苦労した人です。これはおもしろい本です。

 あらためて中央政府、地方政府が人材養成に注力出来るような制度改革をしなければいけません。街の声として、「道路より医療」、「道路よりいのち」と皆さん言います。道路より医療といっても、どの程度の割合にするか、例えば開業医にいれてもあまり意味がない。どこに重点的に貼り付けていくか。薄くひろくばらまくのではなく、重点化することに知恵を出さなければいけないと思っています。