2005.2.7

於:創憲を考える1期生の会

未来型の「創憲」に向けて

仙谷由人

はじめに、憲法とは

本日は憲法論議についてということです。憲法調査会が作られてから5年目になります。その間、私が一貫して憲法問題を考える立場にいたということで、衆議院の憲法調査会、また民主党の憲法調査会の進め方、あるいはそこで議論されてまとめられつつあることがどういうことなのか一番わかっているはずという、そういう前提でお招きを頂いたのだろうと思っています。

5年前に衆議院あるいは民主党にも憲法調査会を作ろうという議論、気運が盛り上がってきた当時、クリントン大統領、ブレア首相という40代のリーダーがアメリカ、ヨーロッパから出てきた。そしてイタリアではブローディの「オリーブの木」、それからドイツではシュレーダーが政権を取るという、そういう政治状況がありました。  

私自身もそうですが、当時の菅代表や鳩山さんも含め問題意識としてあったのは、例えばブレアの「今や国家は小さすぎる、今や国家は大きすぎる」、感性的と言えばそういう表現。我が国では、「nation state(ネイション ステイト)」を、民族国家、国民国家、あるいは主権国家と翻訳しているわけですが、この国家の存在そのものが、どうも時代状況に照らして変わりつつあるのではないか、あるいは反対から言えば、主権国家といわれている国家が持っている主権、つまりは国家主権の中身が変わらざるを得なくなっているのではないかということでした。

また、非常に技術的な話になりますけれども、「憲法」というのは「constitution(コンスティテューション)」と英語では言います。しかし、英語の「constitution」には、構成、構造、成り立ちという意味がある。この「constitution」を日本は明治憲法を作るときに「憲法」という言葉に訳してしまった。なんなのか、なぜ「憲法」という訳し方なのかということも改めて考えなければならないところにきているのではないかと思い、議論をしてきたのです。

司馬遼太郎が言った「国のかたち」というのは、近代革命を経た憲法の中に書かれていた、主権国家の制度及びその権利保障という事柄ですから、憲法の根幹は統治制度、そしてそれと裏表の関係にある人権保障なのだろうということです。そういう近代国家で「国のかたち」を改めて考えざるを得ないような国際的あるいは国内的な環境というものが自分達の眼前にあるのではないかという意識が、憲法論議に取り組む場合、我々に必要ではないかと思います。

そう考えていきますと、憲法というのは80代のおじいさん達がとやかく言うようなことなのか、という疑問も現れてくるのです。少し逸れた話をしますと、日本語でいう憲法、「constitution」が表わされて、それが憲法典という格好になった。そこでの憲法典とは、そもそも国家権力の行使をこの基準を超えてやってはいけないという、トマス・ジェファソンの有名な一説、「憲法とは国家権力に対する猜疑の大系である」、要するに国家権力というのは人権をいつでも侵しそうになるわけだから、それを疑いの眼を持ってみる、そういう基準なのだということ。

一方では民主主義というのもこの憲法の中に取り入れられているわけであります。 近代フランス革命もそうですが、マグナカルタから始まった権利保障は実は「代表なければ課税なし」という言葉で表されるように、国王の無茶苦茶な課税というか、あるいは権利抑圧に対する市民の戦いとして出てきています。そんな中で、それをガバナンス・統治の制度として引き直すと、やはり誰かが、負託を受けて代表しながら決めていかざるを得ない、そこで議会という代議制民主主義を取り入れるということです。つまり代議制民主主義というのは多数決で物事を決めるという、やむを得ざるというか、反対にいえば人間の知恵としてそういうものを取り入れたということです。それを称して国民主権とか人民主権とかというふうに法律概念では言ってきたわけです。

もう少し突っ込んで考えてみますと、では何故そこで憲法というものが日本もそうですが、普通の法律よりも改正し難い手続を決めてあるのだろうか。どうもそこも立憲主義というか憲法は変えてはいけない、なんらかの実質的な理由があるのでしょう。しかしそこも根本的にはよく考えれば、「代表が決めるのに何の文句があるのか、過半数で決めることになっているのだろう」こういう話です。しかしながら3分の2でなければ変えられないというのは実は反対に言えば、3分の1以上が反対すれば変えられないということで、政治的な意思決定の権限をその3分の1が持っているというふうにも受け取れないわけでもないので、これはなかなか将来ややこしい話になるのではないでしょうか。

話がちょっと脇道に逸れてしまいました。先程お年寄りの話をしましたけれども、トマス・ジェファソンが一方で問題提起したのは、立憲主義との関係で憲法という形の条文を決めたときに、後世代の人たちが何故、先の世代が決めたものに捉われなければならないのかということでした。『憲法と平和を問う』という立憲主義のことについて東大の長谷部恭男教授が書かれた中で、トマス・ジェファソンは先程の「憲法は権力に対する猜疑の大系である」と同時に「死者が生者を捉えるべき理由はない。各世代はそれぞれ自らの憲法を選ぶべきだ」と主張したと言うので、ちょっと話はややこしくなるのです。

私が皆様方に敢えて申し上げたいのは、実はこの「国のかたち」、これを今から考えていくときの、条件が今どこにどのようにあるのか、ということを皆様方にもお考えを頂きたい。そして多分これから改めて憲法を作ったり改正したりしなければならない、そういう現実があるとすれば、今から変更した憲法で拘束され、それをつかって主導的に生きていくのは今日おいでの皆様方の世代、あるいはその下の世代なのでしょう。そうだとすると、憲法というのは我々の世代、あるいはその上の世代が色々と意見を言う話ではないのかな、という気もしないでもないのです。

しかしこの民主主義、あるいは人権の問題、平和の問題というのは実は歴史に裏打ちされている部分でもあって、一例として、昨年締結されたEU憲法条約というもの。この一つの結果・結実は、人類の知恵が現時点でこういう形でまとまったというふうに考えれば、何故そういうことをヨーロッパの方々は、彼らは元々理屈っぽいわけですけれども、憲法条約の形にまとめたのか、あるいはどのような手法でこういうものを練り上げていったのか、ということを皆様方に注目して頂きたいのです。そういうところから皆様方が今から改めて憲法論議、あるいは「創憲」という立場からの議論を行うときには、やはり歴史的な経過を踏まえると同時にこれからの日本の「国のかたち」、そして日本が生きているアジアという地政学的な中での「日本のかたち」を考えていく。もちろん国際連合もありますけれども、アメリカ、ヨーロッパとのあるいは中近東アフリカとの関連というものもイメージしながら考えて頂きたいし、そのことが一番重要なのではないかということを私は最近つくづく思っています。

戦後の安全保障論議を省みて

憲法論議、安全保障の議論はたしかに重要ですが、これを我が国では憲法9条改正是か非かという議論にしながら少なくとも50年くらいはやってきたわけです。先般、NHKが総括的にフィルムを流しましたけれども、この話はポツダム宣言の受諾以降、1950年代には冷戦が始まり、幸か不幸か中国大陸に中国共産党という共産主義を標榜する政権ができたということにも規定をされているはずであります。もう一方ではノモンハン事件以降のロシアとの対決の中で日本が満州国建国、満州事変を経て、かの地へ行き、そこでたたき出されるという歴史的な経験があるわけですけれども、明治以降なのかもっと後からなのか分かりませんが、ロシアに対するある種の恐怖感を持ちながら、そして現実にもロシアを仮想敵とする安全保障政策をアメリカ共々採らざるを得なかったといいましょうか、とったということにも規定されて9条論議が展開されてきたわけです。

日本にとって議論の仕方として不幸なことは、「9条があるから安全保障の政策、戦略論がこうでなければならない」という論法で行われてきてしまったことだった、と考えています。あるいは政治論としてもその点が不幸であった。やはり安全保障政策は、論理あるいは思考としては憲法の枠があろうがなかろうが、まずはどのような政策が必要かということを考え、それが必要で憲法を越えるものであれば憲法を改正する、さもなくばそのような戦略をとり得ないということになってくるはずです。しかし最初に憲法論のところから考えなければ安全保障理論・戦略というのは成り立たないというふうに日本では思われてきた。

ただ問題は、軍事に対する国民の意識・感性というものも大事にしなければならないことです。そういう意味では日本の戦後の歴史は非常にあえて極大化しながら矮小化して言いますと、私は「丸腰論」が「戸締り論」に敗れていった、そういうプロセスだろうと思います。つまり自主防衛とまでは言いませんけれども、日米安保条約が一方にあり、一方で自衛隊という武力装置を作ってそれによって日本の防衛をするという安全保障政策についての合意が徐々にではあれ冷戦構造下1990年までにも作られてきたのです。私は日本社会党にいたのでよくわかるのですが、さる政党が、自衛隊をもう違憲と言ったり、解体するなどというのを70〜80%の国民は非現実的だと思っている。しかしながら当時は、現在でいうところの北朝鮮の脅威あるいは中国の潜在的な脅威があるとかないとか、冷戦構造下ではソ連に対する脅威というのが国民の心理的なところではものすごくあったのではないか、その中で合憲論がまかり通ったのではないかと、今から考えてもそう思います。

つまり未だに護憲論者というか憲法は変えてはいけないという論理の中には、一つには変えると日本は軍国主義化する、もっともっと派手に軍事的な方面で世界的プレゼンスを唱えるであろう、という説もあれば、逆に、自衛隊解体・非武装中立というのがあると思います。そんな話は現実政治の中ではとても、とりわけ現時点では採り得ない政策であるし、それにそうは言いながら自衛隊法と防衛庁設置法を違憲であるという、そういう論理展開をする人が一人もいないのをみても、つまり共産党を含めても、やはり自衛隊は憲法上の存在であるということは、これはとりわけ法理論上というか憲法解釈上は定着をしてきたのではないかと思っています。そしてそのことを今表すとやはり自衛隊を違憲合法とか色々な屁理屈をつけるよりは、どこかでこれは憲法上の存在である、と定義づける必要がある。

そうだとすると、これを立憲主義の観点から、国民の安全保障政策の選択自衛隊は必要であるとするならば、これを憲法上どうするのかは、自ずと書くべきだということになるはずで、ことは軍事の問題であります。とりわけ国境線をどう防衛するのか、あるいは軍事的な抵抗手段を一国的にどう持つのか、そのことが国民の権利義務にどういう影響を与えるのかという非常に重大な問題でした。あるいは戦前の日本の反省から言いますと、軍事が政治を乗り越えて暴走するのをどう止めるのかという、これは永遠の課題であるのかも分かりません。これを憲法上何らかの、先程申し上げた立憲主義的な観点からの歯止めとか、何らかのものがなければいけないのではないかというのが憲法論的な話になるはずです。

今我々が抱えている安全保障政策とこの憲法的秩序・憲法体制との話は第3段階に入ってきたと私は思っています。まず第1段階は再軍備是か非か、つまり日本の憲法を解釈すれば非武装中立だという、あるいは憲法論以前に安全保障政策として自衛隊というものが必要かどうかというものであったと。第2期は湾岸戦争以降のPKOを巡る論議や国際貢献と称するものです。これもこの10年でなんとなく決着がついてきたという怪しげな話ですけれども、国連の枠組みで日本が軍事そのものでなくとも軍事的側面に関与する、協力するということが憲法上許されるのかどうなのか、ということでした。そして、現在の第3段階は国連の枠組みを超えてでも、端的に言いますとアメリカの軍事的プレゼンスと共同して何かをすることが憲法上許されるのかと、こういう問題になっているのだろうと思います。

そこでこのそれぞれの段階の過程で国連憲章の39条から51条までを皆様方にもう1度読んで頂きたいのです。法律的には、あるいは国際法的な観点からしても憲法的な観点からしても、この時代的背景として、国連憲章と日本国憲法は双子のように生まれてきているのですが、つまりその背後にはポツダム宣言があり、第2次大戦後の秩序をどうするのかという観点があった。そこでルーズベルトが「ニューワールドオーダー」、つまり新しい世界秩序は国際連合だと主張した。それは国際連盟でウィルソン大統領が「平和10原則」を示したのに、そこからアメリカがモンロー主義でもって一国主義に戻ってしまったことが、第2次世界大戦を引き起こした、こういう反省の下で戦後の国際連合が作られ、国連憲章が出来たわけです。

その国際連合に日本が加入するとき、この国連憲章をどう受け入れるのか、受容するかという議論は当然行われるべきであったし、確かに国会でも少々は議論があったと思いますけれども、そこで日本国憲法をどうするのかということは考えるべきであった。ただ、当時は後でお話しするヨーロッパの主権委譲とか主権の共同行使とかという概念がなかったはずですから、そこまで物事が整理されて議論されなかった。つまり条約の遵守義務があるのかどうか、憲法と条約はどちらの効力が優先するのかという、平板な議論がそこで行われたということです。

国連憲章の39〜51条もそれほど自動的に全てその通りにしなければならないというような規定でもないものの、全くそれらの条文は我が国には関係ないという、そういうスタイルはとりえなかったはずです。しかし、どうも戦後、国連加盟後も議論をしている中でも、国連中心主義を唱える人ほどこの39〜51条は見向きもしない、無視をするという態度に終始してきたというのが日本の現実であったと思います。ただ、それを許容した冷戦構造というのがあった。つまり冷戦構造の元では一部の良心的中小国というか、北米ではカナダ、ヨーロッパではノルディック三国を中心としたところが国連中心の貢献を謳っていたのですが、その一方でドイツですらその時代はそれほど国際貢献ということは考えもしなかったような状況であり、PKOは必要に迫られて作られたけれども、集団安全保障は米ソ、中ソの拒否権によって正しい国連の枠組みとして機能しなかった。そういう意味でも日本にとって、国際貢献をどう受容するのかという問題に向き合わなくてよかったのだろうと思います。

そして今の第3段階に至ったところで考えてみると、このような現在までの歴史を見て頂ければお分かりだと思いますが、結局のところ国際連盟にしても国際連合にしても、これが一般的に機能するかしないか、その枠組みに実効性があるかないかというのは、やはり第1次世界大戦の前からそうだったのですが、アメリカが国際秩序の作り方にどう関与するか、それを抜きにしては語れないわけです。簡単に言えばアメリカがその気になれば機能するということですし、アメリカが離れれば半身不随になってくる、それだけの話です。

ただ、現在に至って顕在化してきた問題は、このイラク戦争を経て国連の枠組みとは関係なく、国連の枠組みを超えてアメリカが何かを軍事的に貫徹できる、新しい国際秩序を作れるというのは、どうも違うのではないか。とりわけ先進国内の合意を得るというのは非常に難しい時代になってきている。あるいは南北冷戦といわれるような状況の下では、却ってそのことは危ういものだというのが、どうもここまできた世界のオピニオンリーダーたちの見解、落ち着き先なのかと私は思っています。

EUから学べること

色々な方々がこれからは「中世」へ回帰するとか、新しい「帝国」の時代だと言っています。中欧「帝国」、アメリカ「帝国」、中華「帝国」こういう「帝国」の時代に入ってくる。「帝国」の時代というのは要するにいくつか盟主国があって、それ以外の国々は全てがその盟主に従うという話です。しかしながら、私はそうではないのではないか、そう簡単に世界が4分割、3分割に仕切られて、後はそれらに日本も含めて追随するかという話ではないだろう、そんなことを考えているわけです。

この間の一つのビジョン的な話ですが、ショッキングなのはEU憲法条約が採択をされたことです。皆様方の良くご存知のように、EU25カ国が統合をする、当然のことながらこの統合の意味は歴史的に積み重ねてきているわけですけれども、結局のところ最終的に国家主権の一つ一つを手放して、昔主権国家が国家の統治作用として行っていたことを「超国家的存在」に移していく過程であることは間違いがないわけです。これはなかなかの知恵だと思います。

元々、EEC・EUは特にフランスとドイツの問題でしたが、国境線を挟んで、もうこれからは国防軍を対峙させるようなことはやめようというようなところから、例のストラスブルグ、アルザス・ロレーヌの獲り合いを止めるというところから始まったわけです。そしてものの見事に、少なくとも国境を挟んで国防軍を対峙させる必要というのはなくなったというのが、現在のEU25カ国です。最近はウクライナもEUの一部みたいなもので26カ国になったのではないかというような説もあるくらいです。

そこで特に見て頂きたいのは、EU憲法条約の中の「主なEUにかかわる国々の主権委譲にかかわる憲法上の規定」です。ヨーロッパ各国は憲法条約を採択する、またそれ以前に通貨同盟を構成し、ユーロになった、あるいはソーシャルチャーターという社会労働憲章を採択する、共通の外交安全保障政策を採択する、ということをやってきたわけですが、それは政策の統一的な基準を作るということと同時に、国家主権をその分、委譲というか放棄せざるを得ないということを意味していました。現に今ユーロとヨーロッパ中央銀行の存在というのは各国の金融政策の自由を奪っている、つまりEU加盟国は自らの一国的な金融、金利政策をやっても、通貨がユーロになっているわけですから、何をやろうと関係ない、というようなところにまでいっているのだろうと私自身思います。そういうことで、この主権の委譲とか、共同行使というふうな形でことが明確に意識的に行われている。先程申し上げた「いまや国家は小さすぎる」、そのことの端的な表れであります。つまり以前の主権国家を超えるガバナンスを作られなければならない、そういうことの実践だろうと思っています。

それから、「いまや国家は大きすぎる」というのは当然のことながら、一方でこの権限を下部組織におろすということでして、ヨーロッパ各国はEU域内に広がると同時に地域のアイデンティティを確立する、あるいは財政的にも、社会保障的政策も地域におろさない限りうまくいかない、身近なところで情報公開をし、住民が参加し、そこで決めるということなくしてはうまくいかないのではないかということで、ほとんどの国が分権化を進めてきているという歴史があります。日本で言えば地方分権、その仕組み、つまり「補完性の原則」とか「近接性の原理」とかというものをヨーロッパ自治憲章で謳いながら、主権国家のレベルではなかなかミスマッチでうまくいかないことを、地方政府が主体を担って行うのが正しいと、その仕組みを作ってきたのがヨーロッパであるということです。

ここまでヨーロッパにやられるとなかなか悩ましい話になってくるのですが、片や日本は未だにメディアも含めて9条を改正することが焦眉の課題で、新聞社によっては9条を改正する人が正しくて、護憲の人が間違い、別の新聞社はその反対で、護憲が正しくて改正論者が間違っているとの論争に終始していまして辟易してしまう。いずれにしても新聞は9条以外報道したくない、NHKですら憲法論議は例え2時間の特集番組を組んでも9条の問題しかやらない。こんなところにまだ日本は立ち止っているわけです。

次に欧州議会選挙の勢力分布の範囲ですが、これは8会派があります。まずEU内部の地域格差ですが、ルクセンブルグはさておきまして、イギリス、スウェーデン、ドイツ、オランダというような国とラトビア、スロバキア、エストニア、リトアニアというようなバルト三国+東欧(スロバキア、ポーランド)との一人当たりGDPの差を見ていただければ分かると思いますが、こういう格差がある地域の人々が、その格差を前提にして、さらにイデオロギー的に右から左まで、左は緑グループということになるでしょうし、あるいは統一左翼というのはもう少し純粋の理論的に純化された左派だったと思いますけれども、そこと右派と呼ばれるような人たちが憲法条約を練り上げたということが、私は特筆されることだろうと思います。

もう既に憲法論議というのはイデオロギー的に右か左かとか、護憲か改憲かという無内容な政治的論争をする暇はないところにきているのではないかというのが私の感覚です。もう少しかっこよく言えば、アウフヘーベンという言葉がありますけれども、つまり今までの護憲改憲論争をアウフヘーベンしたところに日本の「創憲論」という憲法論、あるいは「国のかたち」論というのも答えがあるのではないだろうかと思っているところです。

もっと言えば憲法というものは、議会で3分の2議席があるからといって強行採決するような議案なのか、あるいは年金制度もそうです。先日改めてスウェーデンの年金制度の経過を本で読んでみたのですが、このスウェーデン方式と呼ばれる年金制度はその中身も合理的でクレバーなのだろうと思いますが、様々な要素から日本で採用か否かという検討がは必要です。ただ、ここは与野党が約10年かかって練り上げ、アウフヘーベンする議論をして作り上げた、とりあえず100年安心プランといいながら本当は5年位したらまた何か考えなければならないというような、そういう本音と建前の世界で強行採決をしながら通していくという、そういうものではない。そういう議論の前提たる合意が、ヨーロッパ社会では既に出来つつある。こんなことをうらやましく感じると同時に我々もそこは見習わなければならないと思います。

ただ、これはまずは多数派の方々に見習っていただかないといけない。絶えず非常に古い形で政略的に提起する、もっといえば、憲法問題を提起すれば民主党が困るだろうとか割れるだろうと、教育基本法の問題も同じようなことで提起する方もいるわけですけれども、そういう不純な動機で、生煮えの、それほど国民合意がとれるはずもない中身で国会に出してきてこれを強行採決する。このことによって事態がどう変わるのかというか、国民の意識なり態度なり、国家がどう変わっていけるのかということを、こういう憲法とか年金制度とかを議論するときには絶えず持っていなければならないのではないか。

教育基本法に絡めていえば、道徳教育が導入されたのは昭和33年です。しかしながら、これが教育課程に導入されてから日本の道徳的状況が良くなったのかと考えると、かえって反対だった。それでは何が問題だったのか、こういうことを言う人は多いわけです。教育基本法の問題も憲法の問題も、条文なり条項を変えることの意味を徹底的に議論しなければならないと私は思っているところです。

集団的自衛権とは

再び、皆様方にもこの集団的自衛権として議論されている事柄を、その中身とは何なのかということを確認する必要がある。集団的自衛権の行使を、あるいは集団的自衛権を憲法上書くのかどうなのかのかというときには、必ずどういう中身を集団的自衛権といっているのかということを、お互いに概念を確定してからやって頂きたいと思いますし、やらないと混乱すると思います。

国連憲章の上で認められた個別的集団的自衛権というのは、この行使が「緊急やむをえない場合」には使ってもいいと書かれています。しかもこの「緊急やむをえない場合」というのは「武力攻撃を受けた」場合です。それはたぶん古典的な意味というか、基本的な概念では「国土が」とか、「国土に存在する国民が」とかが武力攻撃を受ける、あるいは受ける切迫性がある場合ということです。しかし今議論されている集団的自衛権を認めるか認めないかという議論は、地球の果てまで行っても同盟国の軍艦や、艦船や飛行機が攻撃を受けた場合にそれを一緒になって迎撃、対抗、反撃できるか、それがないと同盟国の値打ちがないという議論のようでして、それはおそらく国連憲章に記載された集団的自衛権の行使とはちょっと違う新たな概念ではないかと思います。

それでも、それが新たな概念であろうとなかろうと、選択をするか否かというのは、まさに国民が望むかどうか、あるいは政治家の一人としてそこまで踏み込むことが良いかどうかという、まさに世界戦略の問題です。日本がアメリカの51番目の州になるという世界戦略だって、私はないわけではないと思います。誇りを捨てることを厭わないのであれば、別にアメリカ合衆国の一部になってドルで毎日暮らすこともそれほど悪いことではないのかもしれません。ただそんなことを国民なり我々が許すことが良いのかどうなのかという判断は別問題というよりも、私はそういう選択をしないというだけでありまして、極論すればそういう選択が政治の選択として国民の前できちっと議論をされて、国民の審判を受けるというのが政治だと思います。

軍事との関係で言えば、他国の軍隊の通過を認めるということは、まさに戦国時代の、あるいは第1次世界大戦、第2次大戦のヨーロッパなどでは大問題であったわけです。今も他国の軍用機が日本国の上空を通ることが出来る、その許可をするかどうかというのは、多分軍事的には大問題で、どういう立場でそれに賛成をし、反対するかというのは、もしそういう事態が切迫してきたら日本が紛争当事国でも、全く中立の立場であってもそういう問題は改めて出てくるということですから、そういう観点から集団的自衛権の行使というのもきちんと議論をしていかなければならないと思います。

未来の憲法構想に必要な要素 

皆様方にも、今から改めて我々が憲法構想というのを作るのであれば、やはり日本が民主主義国家あるいは平和国家と言われながら過ごしてきて、何が不十分で、何故なのか、憲法上の規定とも関係があるのかないのかということを改めて考えていただきたいと思います。そういう意味から、私はやはり、憲法に対する国民の信頼が揺らいでいるのは何故なのかを考える必要がある。これは政策的に必要な何かをやろうとするときに、それが憲法上衝突するときには憲法を変えて実行する、この手順が必要なので、それは法律についても同様に、現在の法律ではちょっとはみ出るというときには法律を変えてやるということでなければならない。やってから法律を変える、あるいは法律も変えないでやってしまうというのは、やはり法の支配、あるいは立憲主義という観点から間違いではないか。そういう意味では憲法を改めて立憲主義とか法の支配という観点で位置づけ直すということがまず一つ重要です。

それからアジアの中の日本を巡る状況が大変変わってきていることを意識しなければならない。エネルギーにしても知的財産権にしても、健康にしても新たな構想をもって臨まなければならない。そのための「国のかたち」とは何なのかということを、視野に入れたほうが良いだろうというのが私の思いです。民主党の「中間提言」でもこのコンセプトで素案を作らせて頂きました。もう一つ、我々が脱官僚、脱中央集権といってきたことを、憲法上の現在の規定で賄えるのか、賄えるとしても、より明確な憲法上規定をしたほうがいいのではないか。これは分権の問題と日本の官僚システム、あるいは内閣制度をどう我々が再構築していくのか、改めて考え直すかということです。

それからもう一つ、立憲主義とも関係するわけですが、事後的な審判、事後的な救済型社会とか事後審判社会とか我々は呼んでいますが、そのことがきちんと担保できるようなガバナンス、制度の枠組みが出来ているのか。私は先程EUのことを申し上げましたけれども、人権保障という一項目をとってみても、あるいは平和をどう作るかということを考えても、やはり憲法9条があるから平和は守られていると言うのは、人間の怠惰だと思います。平和を作るために何を制度的に作っていけばいいのかということを改めて考えなければいけない。あるいは人権保障のためにはどういう仕組み、装置が必要なのかということを考えなければいけない。

あるいは人権保障の中でも現在我々が晒されているプライバシーの危機、一方では「E−ガバメント」とか「E−デモクラシー」とかと言われるのですが、このIT化を中心とする権利を守るためにはどういう仕組みが必要なのかということを考えなければならない。あるいは財産権の保障でも今は憲法29条、あるいは営業の自由を書いた22条と、そういう権利が現在は書かれていますが、しかしそれらの条文はこれからの時代の話で情報が財産である、価値を生むという、そんなことを全く考えない時代の人たちが作った今の日本国憲法ですし、アメリカ憲法だってそういうことです。そういう財産権的な基本的人権をいかに守るのかということを、もう少し制度的にどう保証するのか、裁判所だけでいいのか、あるいは本人とその権利を保護する仕組みというのはどういう関係にあるべきなのかというふうに、制度的に考えることが必要ではないだろうか。

立憲主義の観点では先程から申し上げていますけれども、やはり憲法裁判所というようなもので最終的に担保してく必要がある。どうも今の日本の最高裁判所の姿勢というのは、官僚主導の下で仕組みとしては現状維持的にやっていくことで何とかなっていた時代の対応の仕方だと思います。最高裁判所が憲法裁判所を作られるのがそんなに嫌であれば、まさに最高裁判所の中に憲法裁判部というのを作るやり方でもいいのかも分かりませんけれども、多分それでは裁判官の質が、ある種の政治的な観点からの裁判が出来ないわけですから、うまくいかないのではないかと思います。

最後に。これからの憲法論のために

最後に日本の憲法論というのは、あるいは日本の全ての憲法解釈論というのもほとんどが政権交代を前提としない思考の枠組みの中でなされてきたのではないかという思いがつくづく致します。だから護憲派を名乗る方々は言っちゃ悪いけれども、絶えず被害者意識が非常に強い。憲法を変えるとこんな被害を被るということをしきりに言います。反対に改憲派と言われる人たちは憲法を変えても、その反射的不利益は自分のところへは及ばないと考えている方々が、どうも多いのではないか。ここでは支配と被支配のような心理的な関係が固定をしている、変わらない。一党支配のもとに変わらないという前提の下に、成り立っているのではないかとつくづく最近思います。

もう私どもの目の前にある状況というのは政権交代前夜であります。皆様方ももう十二分にお気づきになっていると思いますが、少なくとも自民党の政治が理論、論理、あるいはイデオロギーの面では全く説明できなくなっているというところが大問題ですし、対照的に皆様方の世代の政治家のレベルというのを考えていただければその“志”の程度、知的なレベルは遥かに違います、民主党の方々がレベルは高い。

そしてまた現在の産業構造の転換に伴って起こっている事態、財政破綻に伴ってステイクホルダー(利害関係者)にいちいち利権を分配できなくなっている事態を考えますと、必ず次の選挙では政権交代が起こると思います。そういう観点から改めて日本のガバナンス、統治の仕組みを、この統治は一方的に統治者と被統治者が固定するわけではなくて、やはり統治者は代わるという前提で統治の仕組みを合理的なものに変えていく、あるいは時代に合わせて変えていく、あるいはより民主主義が豊富化されていくものに変えていくことが必要なんだと私は最近改めて思っているところで、皆様方にもそういう観点から憲法議論をして頂きたいと思っています。

ちょっと抽象的な話が多かったかもしれませんが、国連憲章も改めて読んでいただくとか、あるいはEU憲法条約を読んでいただいて、想像力を膨らませてこの憲法論議を考えていただきたいと思っているところです。どうもありがとうございました。