国民政治研究会での講演                    

2004年3月8日

 今問われている「国のかたち」

−−民主党の憲法論議      仙谷由人

 

(本稿は、国民政治研究会での講演と質疑を仙谷由人事務所の責任で編集したものです。)

 

 本日は資料として、民主党憲法調査会がまとめた2002年の報告書の要約版を持ってきました。今年の2月に党内で論議を始めるにあたって、昨年の11月選挙で若い議員がふえたので、作成しました。

 民主党では小委員会を5つつくって、議論していきます。第1小委員会が総論、第2小委員会が統治制度。第3小委員会が人権、第4小委員会が分権、第5小委員会が国際・安保という具合に分けて、これから議論して集約していくつもりです。

 

「法の支配」とは何か

 

このかん、憲法調査会で議論してきましたが、昨年のイラクへのアメリカの戦争、国連憲章と日米安保と自衛隊法という法律的関係を、憲法というめがねをかけて見てみると、そもそも「法の支配」とは何か、日本においてどう位置づけ、考えていくかの重要性と大変さを痛感しています。

 「法の支配」論議というのは、規制改革論議や行政・内閣と立法・国会そして、行政指導、行政のあり方ということも含めて問題になってきたテーマですが、これまであまりそういう意識で議論されてこなかった。

 今まで「事前指導の行政から、事後救済、事後審判型の行政へ」とか、「ルールにもとづいた行政へ」といわれてきた。護送船団型行政をどう克服するかということになるが、なかなか進まないのは日本人のくせもあるのかもしれない。他方、私は弁護士だったということもあるが、裁判所が機能しないと、事後救済型や事後審判型というのは、絵に描いた餅になる。今の金融行政のように、結局もとのモクアミ、収まりのよい護送船団行政にもう一度帰っていってしまう。

 先般EU憲法草案と各国憲法との比較、関係を概観する機会があった。感じるのは、司法と行政の間のサブシステム、準司法的機関、言い換えれば司法的行政機関、行政的司法機関というものを構想していかないと、純然たる昔風の司法の領域で事を処するという感覚と発想では、この事後審判型、事後救済型の社会をつくるのは難しいな、ということです。

 「法の支配」という観点からみても、そういう仕組みを考え、用意しないと、「法の支配」は貫徹しない。そのことを個人的には大きな声で言っています。

 

国際法秩序とイラク攻撃

 

たとえば、イラク戦争、集団的自衛権、集団安全保障をめぐる問題で私は次のように発言しています。

 今度のイラク戦争で、アメリカ中心の暫定占領行政当局を見ていて、そして日本の関与・協力を考えてみると、やはりどう考えても、国連憲章や、日米安保や日本国憲法の国際法的切り口やめがねをかけて見ると、「実質的に軍隊とみなされるものを他国の領土に置くことは、しかるべき法的根拠にもとづかなければ認められない、単に占領行政に要請されたというなら、それは占領行政への加担、協力に過ぎないのであって、占領自身が国際法的根拠がなければできない。根拠がなければ、侵略と同義語になる。日米安保条約はどんなに拡大解釈しても法律の上では極東条項が厳然としてあるから、今の基地提供義務だけなのをもう少し軍事的協力義務までも広げて良いと解釈したとしても、極東の範囲を変えるということは、安保条約を改定してからでなければ法の枠をはみ出す。法的には合理化できない。」と。

 私はいつも申し上げているのは、憲法改正してはいけないとは思わない。むしろ改正しないで「拡大解釈」とか「解釈改憲」という形で現状をずるずる合理化するのがよくないと言っています。

 「ジュリスト」最新号(No.1260 2004.1.1-15)に国際法の専門家の大沼保昭東大教授が「護憲的改憲論」という論文を書いています。集団安全保障と日本国憲法の関係を10年以上前から、論じている人です。憲法と現状との乖離が進み、憲法シニシズムとか、法へのシニシズムがここまで蔓延すると如何ともしがたい。それに政治家のビヘイビヤーが重なってくるので、せっかくつくった法律でも守らなくてよい、憲法なんかまもらなくていいという議論が蔓延するのが怖い。

 イラク攻撃は、アナン事務総長もイラク戦争がはじまったときにそう言いましたが、ヨーロッパの国際法学者が、連名で国連憲章違反だ、国際法上合理化できないという声明を出した。多国間協調主義とか、主権対等、主権平等とか、国連の31条以下とか、51条の制裁と軍事的措置とか、第一次、第二次世界大戦の総括・深刻な反省のうえに立って、どこかの国が勝手に、「お前は悪」とか、「けしからんから制裁する」とか、「けしからん政権だから勝手につぶす」とかを少なくとも一国だけで決めない、決めてはならないというのが、国連憲章の多国間主義である。つまり、侵略か同盟かを含めて認定権が国連という枠組みでやるのだ、ということが、「防衛に名を借りた侵略」を防止し、国家間の血で血を洗う悲惨な戦争を防ぐため編み出した知恵だ、これが国連憲章の根本精神だ、そこをハイパーパワーのアメリカが崩してしまったので、法の支配への、憲法へのシニシズムが蔓延していると大沼保昭教授も言っている。 

 

主権国家の変容と、
乗り越えられるべき従来の「護憲」「改憲」論争

 

 憲法議論はメディア的には、どうしても「護憲」か「改憲」かに焦点が絞られています。しかし国会の憲法調査会では、そうでない分野の議論を相当しています。量的にはその方が多い。衆議院の事務局がなかなか優秀で、学問的にも重要な資料を、各小委員会の資料の形で作ってくれている。今までに43集の資料集がある。

 安全保障・自衛隊の問題を看過、没却するのではないが、今の時代、憲法はそれだけではないのではないか、それに日本の行き詰まりは憲法論と関係があるのかないのか、ここを考えてほしい。

 私は、東大の佐々木学長の言葉を参考にしている。改憲をタブー視し、国家が変容せざるをえず主権国家の中身が変わりつつあるのに、その議論をしないでここまできていること、施策の中途半端さが履行過程の停滞に結びついているのではないかということ。どうもそこに日本の行詰りと関係があるのではないか。

 主権国家の変容と言った場合、その議論の中身は、21世紀の国家を考えるにあたって、EUが大いに参考になる。なんといってもグローバリゼーションと情報化が「国のかたち」を変えざるを得ないものにしているかどうかをまず考えなければならない。日本がこれからの21世紀、どういうアイデンティティで、どういう戦略で生き抜いていくのかは、けして「国のかたち」と無関係ではない。

 そこのところを憲法論的に「国のかたち」・国家論として考えず、憲法を論議し改正を提起することは旧来型の再軍備論もしくは軍事大国化への陰謀だととらえ、「それはけしからんから護憲だ、9条をちょっとでもさわったら、軍国主義になって、侵略国家になってしまう。アメリカと一緒にどこまでも軍事的にも道連れをし、アメリカの世界戦略に唯々諾々とつきしたがってしまう」というある種の政治論に押されて、「だから憲法はさわってはいけない。護憲だ」という議論に流されてしまっていいのか。それでいいのかというのが、私のこの間の大変な問題意識です。

 アメリカの世界戦略に唯々諾々と従っていく国家になる可能性が、憲法を変えようと変えまいと、全くないとは私は言いません。これは憲法論議だけの問題というよりは国民の政治選択であって、国民の選挙結果によってこれが行われているのですから、憲法を変えることがそこに拍車をかけることになるのかどうなのか、私はこれからの政治テーマとしても重要だと思います。そして、そうであるならば、アメリカに唯々諾々として付き従わないような「国のかたち」を改めて憲法問題として提起することが重要なのではないかというふうに思っています。  

 それは日本を取り巻くグローバリゼーションをどうみるか、つまりアジアの中で生きていく日本がどう針路をとるかということだろうと思っています。アジアでは(EUに対応する)AUを直ちに作ろうと思っても歴史的な蓄積はないし、それぞれの市場経済の発展段階が違うから直ちにはできるとは思っていない。しかし、一方では、軍事面でのARFとか、アセムとか、APECとかの仕組みが実体的になりつつある、実体をもてるよう努力するのが日本の外交戦略・通商戦略でなければならない。ですから当然のことながら戦略的な目標設定をし、そこへいかなければならない。あるいは経済領域、社会領域でいえば、FTA(自由貿易協定)をどうして早くやらないのか、思い切ったFTAの協定をむすんで日本の市場も開放するということにすべきだ。4〜5年先までなら何とかなるが、もう少し長いスパンで考えるとアジアの中で融合して相互に共存共栄していく仕組みの中に入っていかざるをえない。その認識と覚悟のもとで、事実上国境が低くならざるを得ないのなら、近代国家の主権といわれていたものをどんどん一国ではなく共同主権、共同管理、EU型にしていかなければ、後手をふんでしまう、そうしないと軋みが生じる。

 下部構造がそうだとすれば、上部構造としての通貨発行権や入国管理権や治安やガバナンスの最終的担保としての実力、最小限の実力をどうアジアの中で管理していくのか、地域安全保障という装置をどうつくるのかということと関係します。その場合にアジア共通のPKOでも警察部隊でもそれが必要だと、それがヨーロッパ25カ国との対応で言っても、相互に国家間の戦争の無い世界をつくるとすれば、そこでいう実力部隊というのは相当性格も考え方も変えていくことになる。そういう実力部隊をつくるとすれば、わが国に存在する現在の自衛隊という実力部隊、軍事力の装置をやはり憲法上も位置づけて、アジアで共同行使できるような、主権を移譲して提供するというこういう規定が憲法上必要になるはずです。EUは各国が憲法改正をせざるをえなかったのはそのためだと思う。通貨の問題、入国管理、ピープルの方から言えば庇護権の問題や、域内の市民権をどう位置づけるのか、あるいは権利救済の措置をどうつくるのかと関係があるが、そういう仕組みをどんどんつくっていくべきだとすれば、それはやはり憲法を改正しなければできない。EUという主権国家の上にある機構での主権の共同行使、国家を超える国家が通貨発行権を持ち、金融政策についても一元的にヨーロッパ中央銀行に任せ、市民権を持ちうる人に域内自由通行をみとめるとなれば、相当一つ一つの主権内容も変わってこざるをえない。当たり前の話です。そこまで展望した話を考えなければいけない。

 

  「地方自治の本旨」を憲法で明確化すべき

 

 もう一つ。日本の行き詰まりは、明らかに資源配分の中央集権にある。

 中央で鉛筆なめなめ、補助金システムでやってきました。が、機関委任事務を法定委託事務へと権限規定を言い換えようとも、中央が補助金を握り続ける限り分権自治はできない。  

 まだ地方の側が口をあけて補助金が下りてくるのを待ち構えている。そういう心理と行動のまとにある。三位一体改革は中途半端ででたらめと思うが、この程度の制度改編でも、自治体はヒイヒイいって涙を流して叫んでいるわけです。徳島は県の予算が5〜6000億のところが、200億円中央からの補助金と交付税が減る、徳島市が800億くらいのところが20億減るので、赤字予算しか組めない。みな財政調整基金を取崩してまる裸になってもそんな状況だ。これも結局は三位一体改革といっても、分権推進のための税源財源の移譲ができないのは、どうも憲法上の姿、国家というものについての考え方の腹が固まっていないからだ。そういう目でヨーロッパの憲法を見て比べてみると、日本は92条の「地方自治の本旨にしたがって法律によってこれを定める」となっていますね。では、「地方自治の本旨」とはなんぞや。「地方自治の本旨」そのものを憲法に書かないから、こんなことになっているんじゃないか、今の時点での私の結論です。

 憲法そのものは、地方自治を認める、分権を認めるということで、その骨格・エキスは憲法に書くのが当たり前です。それを「法律(憲法でなく)によって定める」ということになると、国会が決めていいということですから、それが「本旨」であるとかないとか、いやこの程度の「本旨」にしておこうということになっているのが今までの姿です。ここは「地方自治の本旨」は、「中央政府と地方性政府は対等である」、「補完性の原理−生活まわりのことは自治体がやる、できないことを中央政府がやる」、そして「課税自主権」をドンと書く。それらがないかぎり分権は進まない。そして地方議会の性格ももちろんもう少し厳密に規定するということが憲法上ない限り、「法律に書けばそれでよい」というと、いつまでたっても似非分権システムがずるずる続く。続いていくことによって、今の日本の「金太郎あめ」のような地域とその疲弊が続いていくのだろう。やはり貧しくても、自分たちがこれだけの公共サービスを受ける、そのためにこれだけの負担するということが、地方自治体と住民にわからなければいけないし、そこで覚悟がされなければならない、そこは10年ぐらいそういう議論をしてきたわけですから、その原則はみんなが承認する、そのためには憲法上書く、或いは権限規定、ドイツでいうと税目まで憲法上書くべきかもしれない。地方政府が徴収できる税、中央政府が徴収できる税、あるいは両方が徴収できる税を書いてもいい。そういうところまで憲法で書かないですべて法律にまかせるということだと、どうしても国民の意識も強くならないと思っています。

 

 

法律のエキスを憲法に書く

 

「おまえは最近憲法を軽々しく扱いすぎる」と言われるかもしれないが、私はこう考えています。

 大陸法系のドイツ、フランスの学者が日本にきて法律学・憲法学を伝えました。特に明治憲法はプロイセン憲法を取り入れたといわれていますが、抽象的レベルの高い憲法からすべてが導きだされるという論理構造・考え方をとっています。それに対して英米法的な考え方でいくと、そうではなくて、具体的に必要な法律が存在して、それの抽象的化として基本法があり、その基本法のエキスが憲法である。そのように考えていけば、自衛隊法と防衛庁設置法を違憲だといわないのなら、「そのエキスを書く」べきです。憲法に書かれていないこと自身がおかしい。もう少し踏み込んで政治的なことをいえば、94年に村山内閣が発足時に自衛隊合憲論を言ったときに、当時の社会党がちゃんと憲法改正を提起すべきだった。そういうことが法治主義とか法の支配を認める人たちの正しいあり方だったろうと私は思います。それは絵に描いた餅だといわれるかもしれないが。

 憲法に対する我々の態度はそれ以上でもそれ以下でもないと考えたほうがよい。この種の議論を憲法調査会に来てくださった参考人と話すと、「いや、変えなくてもできることをなんで変えなくてはいけないのか」と言われる。

 ヨーロッパと明らかに違ってきているのは、ITをめぐる問題です。これは相当違う。eガバメントはすばらしいことかもしれません。そのことがわれわれの生活に効用をもつとすれば、効率性と、我々が行政にアクセスしやすくなるということだと思います。つまり、情報公開と知る権利とがどう関係するかが一つの問題。

 しかしそこで蓄積された個人情報が保護されなければならないのも当然のことです。この間の欧米の法制度整備や憲法改正を見てくると、eガヴァメント導入に伴って個人情報保護を必ずやらなければいけない。実体法で保障するだけではなく、実質的・制度的に保障する。プライバシーコミッショナーとか、その種のオンブズマンとか、コミッショナー制度とか、つまり苦情を受け付けて、準司法的行政作用によって解決していく。政府からは独立性をもったそういう機関をつくって、そこで苦情処理を行わせる。あるいは情報公開を政府が拒否したらまずそこで申し立てをして、処理し解決するといった制度です。こういう制度を作っている国は非常に多い。そのことは、eガバメント、情報化社会の中で早急にとりくまなければいけなかった問題だ。日本にも「情報公開審査会」というのがある。内閣府の外局になります。常勤のしっかりした人がついていて、その仕事の中身は危惧するにあたらないが、いかんせん規模が小さい。国民が直接申し出できるプレゼンスになっていないのが最大の問題であり、さらにこれは公開をさせる方でありまして、国民のプライバシー保護という観点から仕事にあたることにはなってない。これは裏表の世界でありまして、情報公開審査会もほとんどITのことやeガバメントのことをそんなに意識しないでそのままずるずると運営しているのが実態ではないか。

 これは一例だが、日本の場合、専門的で複雑な領域が出てきても、そこを今のままだと行政が対応する。行政が対応しきれなくなると機関をつくる。なかなか政府として、独立した機関として、費用がかかっても、専門家集団としてやっていかなければいけないということがわかっているのに、どうも役所の縄張り争いでぐじゅぐじゅになってしまう。

 資源配分の観点から考えてみても、行政作用の対応力、効率性から考えても、今の中央のシステムを前提にしたままではできない。橋本内閣のときの省庁再編成では対応できないところにきているのがはっきりしているので、今度の鳥インフルエンザの被害でも、BSEでも、O157でも、エイズ薬害でも、アメリカは食品安全局FDAですが、この種のものを、内閣府にちょっとした独立性をもった専門機関「食品安全委員会」のようなのを作ったが、本来は事後的救済、事後的審判型とかいうのだったら、専門家集団で早く対処を決定し、行動して市町村を動かすことがなければ、日に日に情報だけが広がり、業としてもつぶされるのを業界が待っているという構図。どうも行政のこうした対応を見れば、今の司法、立法、行政という分け方で伝統的にきたシステムを本気でメスを入れなければいけないのではないか。

 

集団的自衛権について

 

 党の憲法調査会の議論しているレベルは資料を見てください。

 この中では憲法9条の改正につながるような大胆な話にはなっていません。先ほどの見解は私の考えで、私自身は、集団的自衛権については、こう考えます。

 国連憲章に書かれている集団的自衛権、個別的自衛権の行使というものは、あくまでも国家間戦争の問題であって、国連による集団安全保障の措置としての実力、軍事力を使う場合の話とは全く別だ。もっと言えば、集団安全保障措置が出て行くまでの、2国間であれ3国間であれ、そこで自国防衛・自国領土の防衛のための措置として集団的自衛権の行使は許容されているとしか思っていない。したがって、今度のイラクのような占領行政に加担する、国連の旗とかおすみつきが無く占領行政に協力するという前提で行った彼の地で、攻撃を受けたから反撃するのが集団的自衛権の行使だという、そんな話しとは概念が違う。そのように思います。

 そういう意味での集団的自衛権の行使、つまりアメリカが動くとき、自衛隊は求められれば米軍に随伴し、米軍が攻撃を受けたときこれに反撃するのが集団的自衛権の行使だから、それは認められるとか認められないとか、そういう議論はナンセンスだ。それは全く別の話であって、それならばそういうことができるよう大憲法改正をしなければ、許されない。

 9条の平和主義にもとづいてとか、9条の精神を生かすとか、3項だけ変えればよいとか、9条が専守防衛だけを認めていることは9条で読みこめるのだが、海外派遣、国際貢献についてはもう一行書き加えればよいとかというレベルの話は、国連の集団安全保障にどうコミットメントするのか、あるいは、国連憲章そのものをどう遵守するのか、あるいは、国連の枠組みで国連が決定したことに日本がどう協力するのか、ということをはっきり認識・覚悟すれば、整合的に書くことができる。

 しかし今言われているように、国連決定があろうがあるまいが、アメリカの世界戦略にいつも、あるいは選択的に随伴できるように自衛隊を使うというなら、これはまったく別の種類の憲法をつくらなければならない。そう思っています。

 

改正議論の今後と参議院選挙

 

問い 民主党は2006年をメドと言っているが、具体的スケジュールはどうか。それから、参議院選挙ではどんな形でできるのか。

答え 参議院選挙では、選挙綱領的なものをつくる。そこに憲法的な課題を入れるかどうか、あるいは、例えば「憲法改正、課税自主権の制定」などをかきこむかどうか。これは対メディア的な問題を含む高度な政治判断だ。執行部がやろうとすればできる範囲では詰めておかねばいけない。9条関係でも腹をくくれば、そのことが選挙にプラスだとすれば、やっていいのではないかと考える。

 もう一つは、衆議院・参議院の憲法調査会の期限が5年ということになっていて、実質的には秋の臨時国会でどういうふうに収斂させていこうかということになろう。そのときに旧来型護憲論、改憲論を乗り越えたところに、政治的に政局的に後手をふまないよう具体的なところに収斂させるようにしたい。そこは,三役の高度な政治判断が必要だとみている。ただ中身の論理的な部分については、「憲法提案」のようなものを今年の暮れまでには作る、つまり新聞的な書き方でいくと「憲法改正大綱」となるか、そうするかどうかは、ここも政局的判断がいるとは思いますが、そこは相当具体的に憲法的なエキスを提起する。

 こういうと私の知的力を暴露するようで恥ずかしいが、所詮は、日本国憲法も明治憲法も、そこに示された価値観は、近代西欧が先行した民主主義(平和、民主主義、人権という概念自身も近代ヨーロッパが先導した部分ですから)、これを神秘なすばらしい日本的な何かを考え市場経済や人権、民主主義、平和ということについての全体系をひっくり返して、別の価値を盛り込んだ憲法を作るというのは幻想だし、時代感覚がずれている。

 封建・絶対時代からの大転換のようなことは無いとすれば、これは相当いいお手本があるわけですから、これを適宜とりこみ整理すれば日本の21世紀型の新しい国家像を憲法論的につくるのは難しくない。政治的には、これはわが党が難しいというのでなく、全国民的にもなかなか覚悟がいる部分があると思っています。

 例えば国際貢献の話も憲法論的にいえば、ヨーロッパの憲法を見れば「国際機関への主権委譲」と書いてあるだけ。ドイツ憲法24条1項2項3項があるが、ヨーロッパ国際連合へ「主権委譲できる」と書いてあって、その規定を根拠に例の域外への派兵ができると憲法裁判所が合憲だと判断した。憲法論的には価値判断すればできる。それをどうまとめた形で見せるかが政治の問題、政局的な判断だろう。

 

憲法裁判所が重要

 

問い 一般法でなく憲法に書かなければいけないのか。今までも憲法9条で書いてあるのに、政府が違反して解釈改憲でやってきた。で、もう解釈改憲ではとても追いつかない。今憲法をいじると従来の憲法をないがしろしてきたのを棚上げしていってしまう恐れがある。できることなら一般の法で対処できればいいのではないか。ここで改正だと、安易に自民党に乗せられる、従来のないがしろの追及がおろそかになるのではないか。

 

答え 一つは政治の問題、これからも政権交代なしに、一と二分の一体制でやっていけばよいのか。そんな時代ではないと認識している。もしそうならあるべき憲法の姿に改正する、古い自民党的な風潮が進んで憲法改正がなされて軍事大国になってやっていくというのを国民が選択するなら、それはやむをえない。そうなればそうなったで振り子はまたふれる。

 なんでこうなるか。裁判所にも責任がある。「法の支配」についての国民の理解も大問題だ。今度もし憲法を変えるときは、最低限、憲法裁判所をつくらなければいけない。これは改正なくしてはできない。憲法問題に決着をつけていく。憲法違反のことは憲法を変えねばできない。変えればできるということをしっかり常識化しなければいけない。「憲法を変えてはいけない、だから憲法違反のことはやってはいけない、そして変えてはいけない」というのは、時代が変わると両立しないということが相当出てくる。

 憲法裁判所があれば、ある政府の行為、行政府の行為は憲法違反になるというのは相当多く出てくる。今まで具体的な損得の訴訟にならなければ裁判の過程にのらない、法や制度を抽象的なレベルで決着をつける場所がないことになっていることが現在の事態を生んだ。憲法解釈の第一次的解釈権は立法府にある。行政府にはない。二義的には、最高裁判所が本気でやるなら憲法訴訟部を作って専門に受け付ける、市民からも行政府からも受け付け、決着をつける、そのとき、時の為政者や与党が、「違憲」とされた法や制度がなければこの国は持たないというなら憲法を変えるということを提起しなければいけない。憲法を変えて制度を作る、こうでなければならない。例えば、そのうちにアファーマティブアクションが女性から提起された場合、女性を就職で3分の1は採用しなければならない。あるいは比例代表制の選挙に女性の候補者数を3分の1以上にしなければいけないという法を通したとする。これに対して男性から不平等だと訴訟を出すとしても、日本ではなかなか最高裁までもっていけない。原告適格だとか、訴えの利益とか言い出すと難しい。そこのことは決着をつける制度が国家のしくみとしてなければうまくいかない。既成事実を積み重ねていくのが一番いけないと思っている。がそれを全部ひっくり返すのは憲法問題でなく政治問題であり、新たな政権についた政党が自衛隊をやめたいのならそういうマニフェストを出してやめるのが筋だ。憲法違反だからというだけではどうしようもない。

 

 

問い 憲法裁判所に関して、違憲訴訟を起こすと統治行為論で逃げる。最高裁は違憲審査に真剣でなければいけないのにどういうところに隘路があるのか。

 

答え わかりません。最高裁の雰囲気が明治憲法下の大審院以来の司法官僚的雰囲気があるのではないか。霞ヶ関は、太政官規則以来、17条憲法以来の官吏。明治憲法は不磨の大典。欽定憲法だから変えてはいけないと皆思ったでしょう。そういう意識が底流にあって、護憲論もその上にのっているような雰囲気がある、司法官僚は天皇がつくった法律が憲法に違反するなどとそんな不敬罪にあたることはできないという意識を引きずって憲法判断を回避する方向に向かう。意識の問題がある。

最高裁がここまで消極的になるとさすがに最高裁の中でも危機感を持つ人も現れるのだろうか、最高裁の福田判事は外交官出身ですが、定数是正訴訟で、「こんなことやってたら、憲法裁判所つくられるぞ」と補足意見を書きました。もっと積極的に「違憲だ、選挙無効だ」といえば国会も本気になる。選挙費用が無駄になろうと、違憲は違憲だと言ったほうがいい。そういう案件が他にも相当ある。

 

憲法で政界再編があるか

 

問い 憲法問題にからみ、中曽根さんの動きとかに、民主党の中にも呼応する動きがある。政界再編になるか。

 

答え センスの問題として、もし憲法問題を軸に政界再編を起こせるエネルギーが日本の政治家にあればこんな喜ばしいことはない。これはある種のイデオロギーであって、体制選択の時代は終わったが、分権、内閣制度についても、地域的な安全保障、9条も、ある種の価値観、イデオロギーであって、もしそこを軸にして政界再編できるなら、それほどのエネルギーがあれば日本は立ち直れる。そうでないから、ぐじゅぐじゅです。中曽根さんもそういう旗をたてて本気で自民党をかき混ぜたらどうでしょう。自民党の人は人権がいやだという人も多いのなら、ガバナンスの問題一つとっても、あなた方これでいいんですかと言いたい。与党は膨大な審議会をしながら、本当はこうすべきだという問題提起をしましたか。9条改正でもいいですよ、アメリカといっしょにやる国家でもいいです。国家制度として旗を立てて走ってごらんなさい、首相公選でも。そう言いたいですね。何で今のぐずぐずの自民党を放置しているのか。

 時代は、中曽根さんが旗をふってもついてこない。若い世代の憲法観や国家観とかいうことも考えなければいけない。優秀な人も多いが、いかんせん以前と違うのは、学生運動も労働運動もない、闘うとか、偉い人を批判するとか、現秩序を否定するモチベーションが少ない、だからこんなに現状維持的なのでしょうか。現状を変えるために憲法的な価値観で政界再編がおきればこれにまさるものはないと反語的に思う。私は政界再編が起こっても怖くない。むしろそのときに動揺しないよう、旗の一本でもあげようかと個人的には思っているんですが。  

 旧来型の、9条をめぐって、再軍備賛成か反対かという古い感覚の人もいますよ。日露戦争100周年をお祝いしなければとか。だけどちょっと待ってちょうだいといいたいセンス。それはやっても多分日本国民の意識分布が正確に現れるでしょう。意見の全体量が10あって、その内、2,6,2に別れる分布の内、真ん中の6の量の国民が、「国のかたち」をどう考え、今の豊かさ貧しさをどう考え、維持していくか。維持できないならどういう制度改革・価値観でもっていくのかというところがなかなかわからなくて苦労します。

 山形県の米の生産量と年金受給者の給付を比べると年金受給のほうが3倍ある。この大変な状況は財政危機という形で現象しているが、この現状を変えるエネルギーをどこから出すかが政治にとって大事です。

 

問い 党内で憲法を変えないんだと言っている人も相当いる。小沢さんと横路さんは国連待機部隊構想で一致した。改憲反対論者が相当いるが、党の中に亀裂が入っていいのか。どう思うか。

 

答え 民主党のなかで亀裂を恐れてはいけない。あまりその辺は気にしない方がよいと菅代表にいいたい。

 自衛隊を合憲的存在として認めないのかどうか。合憲的存在と認めない人が自衛隊解体ならわかる。法の支配の観点で、「憲法とは権力に対する猜疑の体系である」とトマス・ジェファーソンは言っている。これだけはやってはいけないと書いてあるのが憲法だ。例えば令状なしで捕まえてはいけないとか。自衛隊は暴力装置です。政策選択として自衛隊を憲法上の存在というなら、自衛隊法のエキスをシビリアンコントロールの観点から憲法の文言として書いておかなければいけない。

 政治論として、「そんなこと書いたら日教組に支持をもらえない」というのは別の話だ。またアジアにおける地域的安全保障機構としても、「軍事バスケットはだめとはならない」と私は言っている。やはり信頼醸成とか軍の共同管理の話にいけば実力部隊の存在は認めなければいけないのであって、海外に共同訓練所も本部も必要。これは肯定しなければいけない。海外のプレゼンスも肯定するのだから、それは何らかの憲法上の規定がなければいけないのではないでしょうか。

 だから、国連待機部隊をつくるなら、憲法上も、対外的に活動する実力部隊を持つ国連に提供するための部隊を国内におくということを、解釈として許されるというのではなく、許されることのエキスを憲法上書く方が健全だ。憲法の文言を変えてはならないということなら、これは法律論でもなければ哲学論でもなく政治論でもない、なんなのか。

 

若い世代と憲法

 

問い 話を聞いていて、弁護士活動のころと仙谷さん変わってないなと思った。

 小委員会の中でも分権と、国際・安保が一番の問題。これからやる場合、面白いのは民主党の中の若手グループ。若い人は昔の革新ではない。安保については前原さんという論客がいますね。中曽根さんと似ていたりする。違うのだろうなとは思うが。

 

答え 前原さんとは親しい。やはり彼自身もアメリカとの距離感と中国・韓国、アジアとの距離感を外交政策にどう位置づけるかまだ確定させていないのではないか。反中国とか反共親米でもない。

 若い世代は90年代以降の中国、民主化された韓国の存在をどう位置づけるのか。これから中国がどう変わるのか。冷戦思考的もしくは帝国路線のアメリカとお手手つないでなにかをするということでことたりるかどうか。現実の安全保障政策、外交上の政策、戦略的考え方がないと、憲法論的に出てこない。若い人たちも、親米色だったのが、親アジア・親米がバランスよくなっていると思う。ミサイル問題があるから中国の体制に全面的に信頼するようにはなってない。しかし、昔の「親台派」、「親韓派」の価値観ではない。基本的には自立する日本という気分が強いと思う。

 

問い 中曽根さんのように古い人が米中の重点のおき方が、9対1、8対2でアメリカ。若い人は中国4、アメリカ6くらいの考え方がふえているのか、それをどういうグループでリードしていくか。

 

答え かつてのAA研みたいに、タカに対するハトはできない。アメリカも北朝鮮に対しては、やはりアジアの中で石油が出ないからか、中国、ロシアの存在のためか、中東へやったような一方的やり方ではできず、多国間で物事を決めていかざるをえない。これは選挙のためだけでなく、イラクに手をとられてできないだけでなく、地政学的観点も含めたアメリカの基本戦略と見るべき。アジアは多国間の仕組みをどうつくっていくか、多国間協調主義に力点をおくか、端的に日米同盟に力点を置くのか、比重の置き方になるが、地政的にアメリカに開かれてアメリカを取り込む努力をしながら、アジアで多国間のしくみをつくっていくという方向になるだろうと考えています。