新時代に向けた憲法論議を 

衆議院憲法調査会「中間報告」をうけて

衆議院議員  仙谷由人 

 

 11月に衆議院憲法調査会が2年半の議論の中間報告をまとめた。ここで私自身今まで国会で発言してきた内容を整理し、今後の議論に向けての考えをまとめておきたい。

 憲法を考える時には、最初に法とは何か、憲法とは何かということを改めて議論して押さえておかなくては、単なる政治論か甚だしくは運動論にしかならない。従来の護憲・改憲論争というのは、どうもそうした政治論争や運動論にすぎなかったのではないか。20世紀を総括し、国家論、人間の尊厳、人権論を構想し論じ合い、できれば国民の合意形成へと練り上げることが重要だと考える。もちろん国論二分、賛否拮抗したような形での憲法改正がのぞましくないのは言うまでもない。多くの国民の新時代に見合った論議をお願いしたい。

 

 「押し付け憲法」論のまやかし  

 私は大学時代明治憲法制定史を少々学習した。明治22年憲法制定時、植木枝盛や中江兆民はじめ百家争鳴の憲法草案が提出されて、時の支配層が非常な危機感を持ってプロイセン憲法を取りこみ天皇主権を位置付けた。現憲法はGHQに押し付けられたとする「押し付け憲法」論が強力に主張されているが、憲法調査会での調査を行ったところ、当時の政権与党の自由党と進歩党の人達が作った改正草案は大日本帝国憲法と瓜二つで、国家機構や天皇主権や議会の位置付けも、人権保障(すべて「法律の範囲内で」)も当時の国際的水準からかけ離れていた。それでGHQが焦り、ある種の押し付け的なことが行われたという経緯だった。つまり問題は「国体・天皇主権だった」のであって、「神の国」(森前総理)から「民の国」への国体の変更を、敗戦でポツダム宣言を受容したにもかかわらず認めたくなかったのが当時の支配層だった。軍国主義の戦争に敗れた日本の憲法は、確実に反軍国主義、民主化、人権尊重、平和主義の時代精神のもとに作られなければならなかった。そういう価値観をもった連合国に負けたのだから、その価値観を受容するしかなかった。「新憲法の誕生」(獨協大学・古関彰一教授)が言うように、押しつけ憲法論はある種のまやかし・無いものねだりで、当時の日本は二十世紀後半の潮流に従うしかなかったのだが、変えたくない人々の価値観では根底から国体が変えられたという思いが残った。今も大日本帝国憲法回帰心理を払拭できない人たちが存在する。その人たちが9条に限らず、人権についても義務の規定がないとか、或いは教育基本法を変えようと言っているのではないか。

 

 国のありかたを憲法の問題として考える

 憲法とは国の形、国家のありようを示す原則であり基本法である。それは人権の形、中央政府と地方政府の形、国際機構と日本国という主権国の関係を示すものだ。憲法議論は国民主権の豊富化、法治主義の深化、戦争否定の上に立った安全保障、新しい人権、環境、生命倫理、知る権利、外国人の人権保障などの方向性をもって行わなければならない。

 今、人権擁護推進法案が国会に出されているが、海外の憲法調査をして思い至ったのは、東ヨーロッパ諸国が社会主義・全体主義から解放されるとき、各国とも人権抑圧の反省から人権保障を制度的に担保すべきだとの考えであろうか、人権オンブズマン等を憲法上規定した。日本では、人権救済機関を法務省直属にするか内閣府に属する機関にするかという議論が今行われていて、当然法務省につけるよりは内閣府につけた方がはるかにいい(そうでないと刑務所内で皮手錠で痛めつけるなどというでたらめな人権抑圧が是正されない)。しかし、日本でこの人権救済機関が司法権との関係でどう位置づくか。或いは行政が行う人権擁護サービス的な法との関係ではどうか。本来憲法上の議論がなされてしかるべきだ。準司法機関と位置付けるなら、憲法に根拠をもつ機関でなければ、国家主権のありようとして矛盾なく理解することはできない。公正取引委員会、証券監視委員会など、社会が複雑化専門化するに従って裁判所だけでは手におえず準司法的に専門的に判断・解決する機関が必要となる。これは国家主権を横に分権化していくことになる。このように整備されることによって、国民の権利義務に反射し、権利救済は担保される。

 

 解釈によって運用するのではなく、国の形の基本として

 経済的・財政的に行き場のない状態が続く。我々の子供たちや孫たちに何を残すのか。その時代の環境、財政、そして日々の我々の労働と生活を地域コミュニティとの関係でどうイメージを描くのか。そういう議論は憲法論においてもカバーすべきカテゴリーだ。グローバリゼーションで国境が非常に低くなり人々が自由に労働力としても(犯罪も)行き交うということだから、外国人の庇護権、権利義務とその制度を真剣に考えざるを得ない。

 改めて、国境の問題、そして国際安全保障を考えねばならない。国連憲章を見ればわかるが、第一次大戦後の「戦争の違法化」の流れは、一国家が国家主権の行使として戦争をするのはやめよう、国連の制裁措置が発動されるまでの間は条件付で個別的自衛権と集団的自衛権が行使できるが、本来は集団安全保障の枠内でやろうと。日本はこの国連憲章を認めて国連に入っている。理想的な形態は世界連邦の中に警察軍などの機構があって、その実力或いは制裁可能性によって秩序を保つ、その問題を我々は日本という国が「実力」を有することができるか否かという9条の問題の中で考えていかざるを得ない。発足した国際刑事裁判所が裁判権を持つということも、憲法上の問題としてきちっと押さえなければいけない。日本という国家がもつ裁判権の一部をそこに委譲するということであるはずだが、今はその議論もなく、憲法上明示的な規定もない。解釈で、ときの政府の都合で運用されてきたのではないだろうか。

 ところが憲法上の議論というと、9条の「改憲・護憲」論争になるからやめよう、憲法はアンタッチャブルだと。政治論として「巻き込まれ」論という非常に被害者的なポジションに自らを置き、9条問題が浮上するから憲法議論はしてはならないという風潮がいまだに強い。さらにマスコミは、改憲か護憲かということで、9条以外はほとんど新聞記事にしない。この情けない現状が、日本の憲法論議を萎縮させてきたというように考えている。   

 

 グローバリゼーションのもとでの国際機構と国家主権

 明治憲法は、1889年から1947年までの58年。現憲法も約55年経った。日本の場合には特に9条問題だけではなくて、旧憲法が欽定憲法で、そのことによって憲法は変えるべからずとのアンタッチャブル心理が国民に植え付けられ、それが戦後も潜在意識として残った。国連中心主義といいながら、国連の軍事的な側面については自らの問題として考えなかった。今度のイラクに対する核査察は中国、ロシアを含め国連の意思で行うことをアメリカも認めざるを得ない。日本もそれに対してどういう態度をとるのかということは相当腹を決めなくてはならない。

 いま地方政府、中央政府のやることを限定せざるを得ない時代に入った。ヨーロッパでは、EUの委員会が、色々な形で納付金を集めて、それをポーランドとかスペインとかポルトガルにばら撒かなければ調整がつかないという、こういうことまで必要とする時代になる可能性はある。とすると、EU或いはアジアにおけるAUで、徴税権的なものの一部を日本という国家を超えてその上の機構に譲らなければならないという事態がくるはずだ。EUは入国管理・通貨発行権その他の基準設定権を有してしまっており、政治統合が残された課題であるというところまでいっている。国境を挟んでの戦争はないという前提で安全保障の問題は緊急対応部隊をつくることまで決定されている。アジアにおける北朝鮮問題、中台緊張も長いタイムスパンで見れば必ず解決する。それ以前に日本もアジアの一員として調和の取れた存在となっていく必要がある。

 私は9条問題については、自衛隊の存在を認め、憲法上きちんと書いておいたほうがよいと考える。現在は、巨大な自衛隊の存在を憲法上コントロールできる根拠がない。むしろ自衛隊の存在を憲法に文民統制という視点で位置づけるべきだ。非核三原則や徴兵制の禁止なども書くべきだ。集団安全保障については日本の持つ安全保障権、自衛権或いは軍事主権の譲渡の問題、譲与の問題だから、ドイツ憲法の24条(1)「連邦は、法律により主権を国際機関に移譲することができる」のように書いておいた方が法の支配としてより明確になる。重要なのは、集団安全保障とは、日本の国家主権の行使ではなく、超国家的な国際機構に主権の一部を委譲し、その制裁措置や防衛行動に参画するということだ。いま集団的自衛権と集団安全保障の議論がごっちゃになっているが、集団安全保障にはできる限り参加・協力する態勢を取るべきだ。

 

 地方分権と課税自主権

 補助金行政が続き、中央依存のモラルハザードを自治体に生み出し、中央も地方も莫大な財政赤字のもとにもなっている。今グローバライゼーション下で国家がどこまで国民の権利義務を守り、サービスを提供できるか。徴税とこれにもとづく国民へのサービス還元のリスクを国家・中央政府がとれるかということが大問題になっている。極論すれば国家はここまでしかできないから皆さん勝手にやってくださいということの表現が地方分権ではないのか。現下の財政破綻は、「国家が国民を保護する」という建前の内容、程度が問われているということだ。つまり第二次大戦以後の現代国家=福祉国家は積極的に国民にサービス・お世話をすることを建前としているのだが、どこまでそんなことができるのかが問われている。その結果「分権」にせざるをえない。政治的決定の機会を実質的にも市民、国民が持てるというのが分権だが、国家の側から言えば財政危機の現われが分権をせざるを得なくさせる。財務省もそろそろ「もう国ではできない」と言い出した。80兆円の財政規模で、今年は税収その他で50兆、借金は30兆だったわけだが、今年度税収不足がもし2割だと10兆円も税収が不足し、40兆円もの国債発行をしなければならず、税収と借金が半々の国家となる。会社で考えれば、売上と借金が同じなどという企業が続くはずがない。そういう歴史的な地点に今立っている。

 地方分権推進法ができても、財源の移譲が行われていない。憲法調査会の地方公聴会で民主党推薦の町長さんが「本当の分権というのは財源が伴わねばならない」と発言した。その通りだが私はさらに憲法上、課税自主権が自治体にあることを明記すべきと考える。それが本当の分権=地域主権国家ではないか。つまり分権も国の骨格のありようとして考えるべきだ。この町長さんに「課税自主権を憲法上書きこんだ方がいいのではないか」と聞くと「法律でやればできるじゃないか」とおっしゃる。割とそういう法律感覚の人が多い。例えば「安全保障基本法で書けば、憲法を変えなくてよい」という議論で、その議論だと、憲法31条から40条までの人身の自由の規定は、刑事訴訟法にきちんと書いてあれば不要ということになり、憲法27条・28条の労働権の規定も、労働基準法や労働組合法があれば必要ないことになってしまう。国家の骨格、エキスとして、この部分だけは柱として書かねばならないというのが憲法であるという「法」と「憲法」の関係を考えなければならない。

 

 国民主権の豊富化−民主主義の民主化

 今の世界的トレンドは、国民主権をいかに豊富化するか、ヨーロッパ流に言うと民主主義をいかに民主主義化するかということだ。情報公開の徹底、国民の知る権利の明示、統治機構に市民の参加を厚くし、透明度を高める。そして官僚機構に対する不服申立てが行えるよう実質的にも保障する制度を作ることが必要になってきている。

 「行政権は内閣に属する」という規定は司法と立法以外はすべて内閣がやるというように曲解され、すべて行政にお任せすればよいと思われてきたが、内閣と行政はイコールではない。行政は議院内閣制における内閣の政治的決定を受けて執行する機関であって、行政庁そのものが議会と対等の関係で牽制しあうことはあり得ない。民主党が会計検査院をもう少し行政評価ができるようにした機能を国会に持たせるというGAO法案を作ったが、こういう機構・組織も、憲法上の組織としたほうがよい。また憲法裁判所をつくって憲法訴訟が行えるようにした方が現代のスピードに合う。既成事実として皆が認めざるを得ない状況なのにいつまでも違憲・合憲論争が行われるのは不健全である。国民投票についても憲法上、意思決定の方法として書いた方がいい。地方公共団体の公権力行使に対し住民訴訟を提起できる一方で、国民が国の権力行使に対して訴えを起こせる規定がないのは、現行憲法体制を前提にしても大問題である。最高裁が住民訴訟に匹敵するものをつくるべきと判決文で示すか、国会に別の方法で促さなければ、憲法訴訟、憲法判断は活性化しない。国家におまかせして戦争に引っ張り込まれたり、貯金が紙くずのようになってしまうようなバカなことが二度と起こらぬよう民主主義を現代化する、或いは国家の保護ではなく政治参加や政治決定を自己責任で引き受けるにはどういう仕組みでなければならないのか。韓国は憲法裁判所も人権委員会も作り、公務員のポリティカル・アポインティー制度を取り入れた。その時点での技術革新された水準のシステムに後発国がすぐ飛びこめるように、憲法でも後発国が日本を飛び越え現代的・21世紀的な制度を作ろうとしているのに、日本はまだ人権委員会を法務省の直属にするのか内閣府にするのかというような議論をもたもたしている。国家の統治機構における行政庁優位の構造を壊すためにも、国民主権の豊富化の問題としても、憲法論議がこの段階で行われなければ日本は縮こまったまま沈下する。新時代に見合った憲法論議を呼びかける。